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濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは浜田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授(京都帝国大学総長)。岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府岸和田市に生まれた。「青陵」は号。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。 ==略歴== 大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り旧制早稲田中学校(現早稲田中・高等学校)に転校する。さらに、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)を経て東京帝国大学で美術史を専攻し、卒業後、ヨーロッパに留学して考古学の研究を続ける。帰国後は京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任。『通論考古学』で「考古学は過去人類の物質的遺物(に拠り人類の過去)を研究する学」と定義した。この書物は考古学の教科書として長く親しまれ、日本考古学の水準を高め、普及にも役立った。 梅原末治、末永雅雄、小林行雄らを見出し、考古学における京都学派を形成する。従来の日本の考古学の手法にヨーロッパの考古学研究方法を取り入れ、更には中国及び朝鮮半島を含むアジアの遺跡を調査するなどして、日本の考古学研究の発展に多大なる貢献を果たした。 1937年には京都帝国大学の総長に就任した。1938年春以降、病気になり、京都帝国大学病院に入院中、たまたま清野事件(清野謙次医学部教授が古寺から古文書などを盗んで逮捕・起訴され、京大を免職となった事件)が起こった。責任を感じた青陵は7月上旬に辞意を表明、重態の身であるにもかかわらずただちに退院して官邸に帰ったが、萎縮腎から尿毒症を併発し死亡した。京大では総長在任中の死を悼み初めての大学葬を営んだ。 死後は京都市左京区の法然院墓地に埋葬されている。また彼の名をとって、優秀な考古学・歴史・美術などの研究に功績を残した人物に授与される浜田青陵賞が、1988年に岸和田市と朝日新聞社の共催により設けられた。 息子の浜田敦は京大教授・日本語学者。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「濱田耕作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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