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瀋陽市(しんようし/シェンヤンし、中国語:沈阳市、英語:Shenyang、満州語:Simiyan hoton、Mukden hoton)は、中華人民共和国遼寧省の省都。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河の古名・瀋水の北に位置することから由来する。 瀋陽市の常在人口は825万人(その中、都市部人口625万人)、従来より東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地である。 北京から東北3省、朝鮮半島へ繋ぐ枢要地を占めるため、高速道路、高速鉄道・鉄道在来線が放射線状で密集しており、東北地方の最大級の鉄道と空路の運輸能力を持つ。 瀋陽を中心に、周辺の鞍山、撫順、営口、鉄領などの衛星都市と瀋陽経済区を形成している。「一朝発祥の地、二代帝王の城」のように言われ、清の時代を中心とした遺跡が多数残っている。国家歴史文化名城に指定される観光都市である。 == 歴史 == 瀋陽の歴史は大変古く、7200年前には定住集落(新楽遺跡)があったことが知られている。その後はしばらく地域の重要地方都市的な位置にあった。 唐代は瀋州が置かれ、元代には瀋陽路、明代には瀋陽中衛が設置された。 17世紀初、サルフの戦いに勝利した満洲族のヌルハチは後金を建国、瀋陽を都城と定め、1634年(天聡8年)には盛京(満州語:Mukden hoton、ムクデン・ホトン)と改称された。その後清と国号を改めた後金は1644年(順治元年)に明朝の滅亡後の中国を支配し、北京に遷都するが、盛京はその後も副都とされた。1657年には奉天府(Abkai aliyangga fu)が設置され、形式的ながら中央政府に準拠した官制が整備され、現在でもホンタイジ時代に主要部分が建設された瀋陽故宮が残っている。1664年(康熙3年)には承徳県(Erdemu be aliha hiya)が新設され、奉天府の府治とされた。 19世紀後半以降、それまで漢民族の移動が認められなかった満洲が、ロシア帝国の南下政策に対抗すべく、禁地政策が解禁され開発が急速に推進されると、瀋陽は地域の中心としての役割を担うようになった。1903年には東清鉄道南満州支線が完成してロシア帝国の勢力下に入り、日露戦争中の1905年、奉天会戦の舞台となる。 1910年(宣統2年)には承徳県が廃止され、県域は奉天府の直轄とされ、1912年(民国元年)、辛亥革命により清朝が滅亡すると、2月に承徳県と改称されたが、河北省に同名の承徳県が存在したことから5月には瀋陽県と改称された。その後は中華民国臨時政府を巡る混乱の中、1923年(民国12年)には奉天市が設置され奉天省の省会とされた。1929年(民国18年)にはそれぞれ瀋陽市、遼寧省と改称されている。その後は張作霖や張学良を代表とする奉天軍閥の拠点となった。しかし鉄道駅を中心とする市街地の大半は南満洲鉄道の付属地とされ、日本が行政権や警察権を掌握していた。 1931年満洲事変により関東軍に占領されると、奉天市と再度改称、1945年(民国34年)、ソ連対日参戦による満州国の崩壊で中国共産党が進出し、瀋陽特別市と再改称されて白希清が市長に任じられる。中華人民共和国が成立した1949年には中央直轄市に昇格、1954年に地級市に改編され遼寧省の省会として現在に至る。以上の歴史原因より、未確認ままの残留邦人が多数住んでいる。 満州時代の地図から見られるように、市内は大きく東・西の2部分に分かれる。 東半分は、旧城郭を中心とした地域; 西半分は、満鉄付属地を中心とした地域。 現在も、その構図は大して変わっていない。 2004年に、瀋陽故宮ならびに東陵(清太祖ヌルハチの墓廟)、北陵(清太宗ホンタイジの墓廟)などが「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」というかたちでユネスコ世界遺産に追加登録された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀋陽市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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