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熊坂長範 : ミニ英和和英辞書
熊坂長範[くまさか ちょうはん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くま]
 【名詞】 1. bear (animal) 
: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [はん]
 【名詞】 1. example 2. model 

熊坂長範 : ウィキペディア日本語版
熊坂長範[くまさか ちょうはん]

熊坂長範(くまさか ちょうはん)は、平安時代の伝説上の盗賊。室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い、盗賊の集団を率いて美濃青墓宿(または赤坂宿)に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという。
源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた。
== 概略 ==
幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである〔「烏帽子折」(『新日本古典文学大系 59』岩波書店、1994年)〕。
:鞍馬寺を出奔し金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた。
謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である〔観世左近編著『烏帽子折』(檜書店)・「熊坂」(『新日本古典文学大系 57』岩波書店、1998年)〕。
牛若丸が奥州へ下るさいに盗賊を討つ、という逸話は、13世紀半ばに成立した『平治物語』においてすでに現れている。ここでは、黄瀬川宿(現沼津市)付近で身の丈6尺の馬盗人を捕縛し、百姓家に押し入った強盗6人を切り伏せている〔「平治物語」下(『新日本古典文学大系 43』岩波書店、1992年)〕。『曽我物語』では、盗賊を討ったのは美濃垂井宿のこととされ〔「曽我物語」巻八(『日本古典文学大系 88』岩波書店、1978年)〕、室町時代前期に成立したと考えられる『義経記』では、出羽の由利太郎と越後の藤沢入道に率いられた信濃・遠江・駿河・上野の盗賊勢100人ほどを鏡の宿において討ったとする〔「義経記」巻第二(『日本古典文学大系 37』岩波書店、1977年)〕。熊坂長範の名が現れる幸若舞『烏帽子折』と謡曲『烏帽子折』『熊坂』の先後関係は明かでないが〔「看聞日記永享四年三月十四日条(『続群書類従 補遺第2』)によれば、永享4年(1432年)の伏見宮御所における演能に『九郎判官東下向』が見え、これが現在の謡曲『烏帽子折』であるならば、おおよそ15世紀には熊坂長範の名が登場していたことになる。〕、内容から見るといずれも『義経記』、なかでも越後の住人で大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が江戸時代から指摘されている〔小山田与清「強盗熊坂長範考」(『古老遺筆 講史資料』松栄堂、1896年)近代デジタルライブラリー 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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