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片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 == 経歴 == 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月に陸軍士官学校(第31期)に入校。1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校、1928年(昭和3年)12月、同校を卒業した。1929年(昭和4年)3月に歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。 1930年(昭和5年)8月、関東軍参謀部付に移り、翌年10月から関東軍参謀に進んだ。1931年(昭和6年)9月に関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦主任石原莞爾中佐らの計画による柳条湖事件により満州事変が発生した。片倉ら若手の参謀はこの陰謀を事前に知らされていなかったが、石原の主張する満蒙問題解決案に強い影響を受け、満州国を策源地として日本の革新を迫る「満州派」と呼ばれる一派を形成するようになった。昭和7年9月8日に前関東軍司令官の本庄繁中将、板垣、石原らとともに宮中で昭和天皇に拝謁し昼食会に臨席した。懇談会において天皇は本庄に「満州事変は、一部の者の謀略との噂もあるがどうか」と質問し、本庄は「一部軍人、民間人によって謀略が企てられたとのいうことは、私も後で聞き及びましたが、関東軍並びに本職としては当時断じて謀略はやっておりません」と答えている。 1932年(昭和7年)8月、久留米の第12師団参謀へ配転される。この時期、第12師団は五・一五事件による軍のファッショを批判する福岡日日新聞に対して嫌がらせを繰り返し、片倉も脅迫状を新聞社へ送っている。新聞社を爆撃するとした噂もでたが、主筆の菊竹六鼓は「田舎新聞をつぶす?いいでしょう。用意はできとる。いつでも来なさい」と内心の恐怖と戦いながら対決の姿勢を崩さなかった。 1933年(昭和8年)8月から参謀本部第二部第4課第4班に務める。陸軍省および参謀本部の幕僚の座長となって「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」という文書を作成した。これは、軍人による政治的非常事態が起きた際の対処をまとめたもので、二・二六事件における対応策にも利用された。この文書の目的は、皇道派などによるクーデターの鎮圧を利用して、軍主導の強力な政治体制を確立することにあったと、後に片倉は証言している〔中田整一『盗聴 二・二六事件』文藝春秋社、2007年(平成19年)〕。 1934年(昭和9年)8月、歩兵少佐に進級し同年12月から陸軍兵器本廠附兼軍務局付で対満事務局に配属(事務官)される。1934年(昭和9年)11月20日の陸軍士官学校事件では陸軍士官学校中隊長の辻政信らと共に、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らの逮捕に関与した。この事件は辻の陰謀であるとの説が有力視されているが、片倉の関与については辻に加担したとも、また永田鉄山軍務局長の指示によるともされている。片倉本人は後に共同謀議・永田指示説を否定している〔「未公開写真に見る2・26事件」〕。村中と磯部はでっち上げであるとして、辻と片倉を誣告罪で告訴している。 国内情勢担当であった片倉は1935年(昭和10年)8月12日の相沢事件について責任を痛感し一時進退伺いを立てている。 1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が発生した。片倉は当日の朝に家を出てから事件の発生を知り、陸軍省、さらに陸相官邸へと向かった。川島義之陸相への面会を要求していたところ、玄関前において磯部にピストルで銃撃され頭部を負傷した。さらに軍刀を抜いた磯部をその場にいた真崎甚三郎大将がなだめ、片倉は山崎正男大尉に助けられ陸相の車で病院へと送られ頭蓋骨で止まっていた弾丸の抜き取り手術を受けた。 1936年(昭和11年)8月、陸軍省軍務局軍務課員に転属し、1937年(昭和12年)3月から関東軍参謀に任ぜられる。 *1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に進級し、同年12月1日、関東軍第4課長に進む。 *1939年(昭和14年)8月1日、歩兵第53連隊長に就任し、翌年の3月9日に歩兵大佐へ進級する。 *1940年(昭和15年)8月30日、参謀本部付に転じ、同年12月4日から陸軍歩兵学校研究部主事を務める。 *1941年(昭和16年)7月17日、関東防衛軍参謀に就く。 *1942年(昭和17年)9月18日、第15軍参謀 *1943年(昭和18年)3月18日、緬甸方面軍作戦課長に就任する。 ビルマ方面軍作戦課長時代、第15軍司令官牟田口廉也の強い意向でウ号作戦が計画された。片倉は、稲田正純南方軍総参謀副長などと共に敵が攻勢を企図していた場合に逆進攻をかけることによって攻勢防御を実施する考え方自体には反対していなかったが、牟田口のやり方は危険が多いと判断し、反対の立場であった。1943年(昭和18年)9月11、12日にシンガポールにおいて南方軍主催の各軍参謀長会同が開催された際、隷下の第15軍から提出されたウ号作戦案が牟田口の案と同様の内容であった際には「再三の南方軍・ビルマ方面軍の勧告にもかかわらず作戦案を修正しようとしない15 軍の態度は命令違反だ」と強い批判を行っている。しかし、片倉のような批判の声は牟田口への遠慮から原案の放棄に繋がることは無かった。しかし毎日新聞によれば片倉は最後まで反対だったと言う。結局1944年(昭和19年)3月に作戦は実行され、7月に中止された。作戦中はもとより作戦後に渡って第15軍は壊滅的な損害を蒙った〔荒川憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に— (PDF形式)」防衛研究所 2002年(平成14年)〕。 *1944年(昭和19年)3月1日、陸軍少将に進級する。 *1944年(昭和19年)4月8日、第33軍参謀長に進む。 *1944年(昭和19年)6月15日、陸軍航空総監部付 *1944年(昭和19年)12月26日、下志津教導飛行師団長に就任する。 *1945年(昭和20年)4月30日、第202師団長に就任する。 *1945年(昭和20年)8月15日、高崎で終戦を迎える。 *1945年(昭和20年)12月、復員する。 戦後は商事会社経営の他、1958年(昭和33年)1月23日にはスバス・チャンドラ・ボース・アカデミー設立に関る。1978年(昭和53年)から同アカデミー会長に就任。戦後は旧満州国の関係者で構成される国際善隣協会理事長などを歴任し、戦中の体験からビルマの戦いで命を落とした日本陸軍兵士の遺骨収集に積極的であった。1991年(平成3年)7月23日、急性心不全のため東京都目黒区の病院で死去。葬儀は祐天寺で行われた〔「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』 1991年(平成3年)7月24日大阪朝刊23面〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片倉衷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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