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ドイツ領東アフリカ(ドイツりょうひがしアフリカ、)は、東アフリカに存在した、後のブルンジ、ルワンダ、およびタンガニーカ(タンザニアの大陸部)の3地域を合わせたドイツ帝国の植民地。面積は994,996平方キロメートルで現在のドイツの3倍に近い。1880年代から第一次世界大戦にかけて存在し、戦後イギリス帝国とベルギーに占領された後、委任統治領となった。 == 歴史 == === 設立から第一次世界大戦まで === 1884年頃、探検家でドイツ植民協会の創設者カール・ペータースは、ザンジバルから海を隔てたアフリカ大陸東部に入り、原住民の首長らと「ドイツの保護を求める」契約をむすんだ。ベルリン会議終了後の1885年3月3日、ドイツ政府はドイツ保護領東アフリカを設立する意向であること、ペータースのドイツ植民地協会に(2月17日に密かに)ドイツ保護領東アフリカ統治を委託する勅許を与えたことを公表した。ペータースはその後、現地を縦断し南方ルフィジ川、および北方沿岸部ラム近くのヴィツ(en、ウィトゥランド、スワヒリランドとも)へ展開する様々な専門家を募った。 ザンジバルのスルターン(アフリカ大陸インド洋沿岸部の実質的統治者だった)が、ドイツの進出に対して抗議した際、ドイツ宰相ビスマルクは5隻の軍艦(ビスマルク級コルベット「シュトッシュ」「グナイゼナウ」、ライプツィヒ級コルベット「プリンツ・アダルベルト」、アルコナ級フリゲート「エリーザベト」など)を派遣した。艦隊は8月7日に現地に到着し、砲口をスルターンの宮殿に向け威圧した。イギリス帝国(ザンジバルから支援を求められていたが、それに応えず自らも東アフリカに進出した)、ドイツおよびフランスが協議した結果、1886年に大陸部を分割してお互いの境界線(それに伴いザンジバルの支配地域も)を定め、イギリスは後のケニア(イギリス領東アフリカ)を、ドイツは後のタンガニーカを領有することとし、ザンジバルの支配地域はザンジバル島など東アフリカ沖の島嶼部および大陸沿岸から10マイル(16km)内陸までとされた〔この沿岸部も1888年にはドイツ・イギリスの租借地となった〕。フランスはコモロ諸島領有の英独承認と引きかえにそれらの境界を承認した。イギリスの支援を得られなかったザンジバルは同意せざるを得なかった。 ドイツは速やかにバガモヨ、ダルエスサラームおよびキルワ地区を支配下に置いた。1888年アブシリの反乱が発生し、翌年に(イギリスの支援を受けて)鎮圧した。1890年、イギリスとドイツはヘルゴランド=ザンジバル条約を締結、ザンジバルやウィトゥランドはイギリスの保護領に、北海のヘルゴランド島をドイツ領とし、ザンジバルの支配地域だった沿岸部を買収してドイツ領東アフリカの権限範囲を定めた(境界線は1910年まで不明確なままだった)。 1891年から1894年の間、首長ムクワワに率いられたがドイツの進出に抵抗したが、結局他の部族がドイツ側についたため敗北した。ゲリラ活動を続けた後、ムクワワは追い詰められ1898年に自害した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドイツ領東アフリカ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 German East Africa 」があります。 スポンサード リンク
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