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玉木 朋孝(たまき ともたか、1975年6月13日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(内野手)。 から広島東洋カープ二軍守備走塁コーチを務めていた。 2015年からは、一軍守備走塁コーチに就任する。 == 来歴・人物 == 修徳高では同期に高橋尚成がいた。1年秋から四番・遊撃手を任され、3年春に腰を痛めてフォームの修正に時間がかかったものの夏の都大会では準決勝で同点2点タイムリーを放つ〔読売新聞、1993年7月31日付朝刊、東京地方面〕など、チームの夏の甲子園出場に貢献。本大会では育英との準々決勝で公式戦9本目となる本塁打を打っている〔読売新聞、1993年8月22日付朝刊、東京地方面〕。大型遊撃手として評価されて同年のドラフトで広島東洋カープに3位で指名を受け、契約金と年俸それぞれ5,000万円、480万円(いずれも推定)で入団した〔読売新聞、1993年12月2日付朝刊、P.20〕。 に初の一軍出場を果たすが、結果を残せずオフに自由契約となり、オリックス・ブルーウェーブに入団した。には、自己最多の49試合に出場し、規定打席には到達していないものの打率.302の成績を残した。試合終盤、代走や内野の守備固め(※主に三塁手・二塁手の守備固め)での出場が多い中、シーズン得点6と代走の役割を全うする。また失策0と鉄壁な守りでチームの勝利に貢献した。 2004年9月27日、オリックス・ブルーウェーブとしての最後の試合で9番サードでスタメン出場する。またその試合、終盤ファーストに守備変更、9回表2死、大阪近鉄バファローズ、星野おさむ(※大阪近鉄バファローズ最後の打者)が放ったセカンドゴロを4-3と受け取り、オリックス・ブルーウェーブとして、最後の刺殺(ウィニングボール)を記録する。 の選手分配ドラフトではオリックス・バファローズに振り分けられ、引き続きオリックスと契約。同年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。 引退後は広島に戻り、スコアラー(先乗りスコアラー)を務めていた。に同球団の二軍守備・走塁コーチに就任した。 RCC広島カープ携帯サイトでコラム、「玉木朋孝のスコアブック」を更新している。シーズンオフでも更新頻度は高い。※一軍守備走塁コーチ就任に伴い、2014年12月26日のコラムが最終更新。 2014年10月29日、2015年度のコーチング・スタッフが決定され、一軍守備・走塁コーチに就任することが決まった。 プロスポーツ昭和50年会〔プロスポーツ昭和50年会 〕の会長としても活躍している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉木朋孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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