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王 天培(おう てんばい)は、中華民国の軍人。黔軍(貴州軍)の軍人で、後に国民政府(国民革命軍)の軍指揮官をつとめた。旧名は倫忠。字は植之。トン族(侗族)。弟に同じく黔軍や国民革命軍の軍人であった王天錫がいる。 == 事績 == ===黔軍での台頭=== 父は緑営の都司だったが、後に造林業を営んだ。王天培は、初めは学問を志したが、科挙の廃止に伴い、軍人の道を志す。1907年(光緒33年)に貴州陸軍小学堂に入学し、卒業後に武昌陸軍第3中学で学んだ。〔徐主編(2007)、67-68頁。〕〔劉国銘主編(2005)、128頁。〕なおこの頃、袁祖銘とは換譜兄弟の契りを結んでいる。〔『天柱県志』(1993)、877頁。〕 1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発すると、王は学生代表として革命軍に参加し、前線作戦指揮官となる。12月には、凰山要塞司令をつとめた。1912年(民国元年)、保定陸軍軍官学校に入学した。〔徐主編(2007)、68頁。〕1913年(民国2年)12月、袁世凱が国会を解散し、臨時約法を廃止する。王天培はこれを批判する活動を行ったが、そのために逮捕、収監されてしまう。貴州の名士の仲介により、王は釈放された。また在学中に一度母の喪に服するため帰郷すると、王は自ら郷兵(義勇兵)を組織し、天柱で活動していた会党や匪賊を掃討している。その後、保定陸軍軍官学校を卒業し、黔軍に加入した。〔〔 王天培は護国戦争(第三革命)などで軍功をあげて次第に昇進し、後に彭漢章と共に黔軍指揮官谷正倫の有力配下となった。1920年(民国9年)11月の民九事変、〔この当時、貴州省では孫文支持の新軍軍人を核とする「新派」(指導者は黔軍総司令・王文華)と、北京政府支持の旧軍・政治家を核とする「旧派」(指導者は貴州督軍・劉顕世)の権力闘争が激化していた。谷正倫は王文華の指示を受けて貴陽へ進軍してこれを占領、旧派を粛清した事件である。〕さらに孫文の命による広西省の陸栄廷討伐にも谷に随従して参戦している。1922年(民国11年)1月、谷が中央直轄黔軍総司令に任命されたことに従い、彭は黔軍第1混成旅旅長、王は第2混成旅旅長にそれぞれ任命された。また、この際に孫文(孫中山)の知遇を得て、桂林で中国国民党に加入している。〔〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王天培」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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