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王華(おう か、385年 - 427年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚。字は子陵。本貫は琅邪郡臨沂県。 == 経歴 == 東晋の太子中庶子・司徒左長史の王廞の子として生まれた。呉県に居住した。398年(隆安2年)、王廞は王恭の命を受けた劉牢之に討たれて敗れ、王廞の長男の王泰が殺された。王華は父の王廞とはぐれ、沙門の釈曇永に従って逃亡した。劉牢之の検問が厳しくなったため、曇永は王華に衣裳の包みを下げさせて後ろに従わせたが、津を警備する兵たちに疑われた。王華は足が遅れていたことから、曇永は「おまえが怠けると、わたしに累が及ぶのだ」と罵って、杖で王華を数十回も殴りつけたので、兵たちも疑いを解き、このため難を逃れることができた。赦令が出ると、呉県に帰った。 父の消息が不明なまま、布の着物と菜食の生活で、人と交遊することもなく成長した。劉裕は王華を任用したいと考えて、王廞の喪問を発し、王華に正式に服喪させた。喪が明けると、劉裕が北伐して鎮西将軍・北徐州刺史を兼ねたため、王華は召し出されて北徐州主簿となり、そのまま鎮西主簿に転じ、治中従事史となった。彭城公劉義隆が西中郎将・荊州刺史として江陵に駐屯すると、王華はその下で西中郎主簿となり、諮議参軍に転じ、録事を兼ねた。420年(永初元年)、劉義隆が宜都王となり、鎮西将軍となると、王華は従って鎮西府に転じた。劉義隆は政治の事務を司馬の張邵に任せていた。張邵は傲慢な性格で、その鹵簿は主君と見まがうばかりに飾り立てていた。張邵は白服での登城を王華に糾弾され、罪に問われて召還された。王華が代わって鎮西司馬・南郡太守となり、鎮西府と荊州の事務を代行した。 424年(景平2年)、徐羨之・傅亮・謝晦らが少帝を廃位して、劉義隆を帝位に迎えようとした。劉義隆は少帝が殺害されたことから、徐羨之らを疑って東下しようとしなかった。王華は3人の勢力均衡を利用して権勢を固めるよう勧めた。劉義隆は王華の提案に従い、王華に荊州の留守を任せて、自身は建康に入った。劉義隆(文帝)が即位すると、王華は侍中となり、驍騎将軍を兼ねた。まもなく侍中のまま右衛将軍に転じた。 426年(元嘉3年)1月に徐羨之・傅亮が処断され、2月に謝晦の乱が平定された。6月、王華は侍中のまま中護軍に転じた。427年(元嘉4年)5月、死去した。享年は43。散騎常侍・衛将軍の位を追贈された。432年(元嘉9年)、徐羨之を処断した功績により、新建県侯に追封された。諡は宣侯といった。 子の王嗣が後を嗣ぎ、左衛将軍となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王華」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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