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皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。天皇を除く、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王の総称である(「天皇」の存在については憲法にも規定が特記され、皇族には含まれない)。 == 前近代:狭義の皇族「皇親」と広義の皇族「王氏」 == 701年(大宝元年)に制定された大宝令、757年(天平勝宝9年)に制定された養老令などの律令には、皇族は「皇親」(こうしん)として規定されている。また、2世から4世(後に5世)までの皇族は王氏(わうし、おうし)とも呼ばれた。 律令に定められた皇親には、親王(しんのう、みこ)と王(おう)の別がある。特に性別を分ける記述はないが、女性はそれぞれ、内親王(ないしんのう、ひめみこ)、女王(にょおう、じょおう)と称した。親王号は、古くは天皇の子および兄弟姉妹の称であった。後には、天皇の子および兄弟姉妹のうち、親王宣下を受けた者のみに限られるようになった。親王は、天皇から品位(ほんい)を受け、品(ほん)にしたがって国家から給田を受けた。 律令の一つである「官位令」(かんいりょう)によれば、品位には一品(いっぽん)から四品(しほん)までの4段階があり、それぞれ国家から決められた給付を受けた。また、官職を受ける任官においても、八省卿(八省の長官)、大宰帥(だざいのそち、大宰府の長官)、一部の大国(親王任国)の国司(太守)など、四品以上の親王に留保された官職があり、高官への就任を保障された。一方、品位をもたない無品の親王は無品親王(むほんしんのう)といった。品位を持つ皇族が罪を犯した場合、罰として品位の剥奪が行われることもあった。 皇親の範囲は、「継嗣令」(けいしりょう)の規定では、天皇の四世孫(玄孫、やしゃご)までが皇親とされた。五世孫は王を称したが、皇孫にはあたらないとされた。後の慶雲3年(706年)2月の格(きゃく)で、五世孫までが皇親とされ、五世孫の嫡子に王の称が許された。なお、近代の皇族制度とは異なり、婚姻によって皇親身分を獲得したり喪失したりすることはなかった。したがって、藤原氏の出身である光明皇后のように、皇后であっても臣下の家の出身者は皇親とは認められず、逆に藤原教通に嫁した禔子内親王のように、臣下に降嫁後に皇親として二品の叙位を受けた例も存在する(『扶桑略記』長久2年12月19日条)。 令では、皇親でない者は、天皇から姓を賜って臣に下ると規定されていた。最初の賜姓がいつであったかはさだかでないが、初期の賜姓皇族(姓を賜って臣下となった王の氏族)として橘氏がある。奈良時代の聖武天皇の治世である天平8年(736年)、敏達天皇の子孫であった葛城王(橘諸兄)と佐為王(橘佐為)が臣籍降下を申し出て、「橘宿禰」(「橘」が氏(ウヂ)、「宿禰」が姓(カバネ))の氏姓を賜ることを願った。このとき賜った氏姓である「橘宿禰」は、もとは葛城王・佐為王の母である県犬養三千代が賜った氏姓〔橘氏(橘宿禰。「橘」が氏(ウヂ)、「宿禰」が姓(カバネ)。)の氏姓は、708年(和銅元年)の元明天皇の大嘗祭のとき、女官の県犬養三千代が、天武天皇の時代から仕えていることを称されて、杯に浮かぶ橘とともに賜った。〕である。平安時代初期以降には、皇親の数を減らして国家の支出を減らす、皇位争いに関する政争を除く、皇室の藩屏となる高級貴族を置くなどの目的で、多くの臣籍降下が行われた。 後一条天皇のとき、皇太子敦明親王が皇太子辞退(廃太子)を申し出ると、敦明親王の男子は二世孫(三条天皇の孫)であるにもかかわらず、三条天皇の猶子とされて親王宣下を受け、親王の待遇を受けた。このとき以後、「親王は天皇の子」というルールは厳格に適用されなくなり、天皇の孫より遠い血縁の皇親でも天皇の養子・猶子となって親王宣下を受け、親王の待遇を受けることが可能となった。後には、親王宣下を受ける資格が世襲化され、世襲親王家となった。 江戸時代以降、世襲親王家は4家にまとまり、四親王家から構成されるようになった。四親王家とは、伏見宮、有栖川宮、桂宮(現在の桂宮家とは無関係)、閑院宮の4つの宮家である。この4家は、代々の当主である王が、天皇の猶子となり、親王宣下を受けて親王の待遇を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「皇族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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