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益田 元祥(ますだ もとなが)は、戦国時代から江戸時代の武将。石見国人益田氏の第20代当主で石見七尾城主。毛利氏の重臣。父は益田藤兼、母は石津経頼の娘。妻は吉川元春の娘。子に広兼、景祥、家澄、就之、就景。 == 生涯 == === 毛利氏に従軍 === 父が毛利氏に従属した後の永禄元年(1558年)に生まれる。永禄11年(1568年)、毛利元就を烏帽子親として元服する。 天正6年(1578年)の上月城の戦いに吉川元春・元長父子と共に参加、天正8年(1580年)には反旗を翻した伯耆羽衣石城主南条元続を攻め、所領を賜っている。天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも元春に従軍、同年に父から家督を譲られる。 主君の毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると、主従共に秀吉の天下統一戦に従い、天正13年(1585年)の四国攻めに参戦して伊予高尾城攻めで奮戦、天正14年(1586年)の九州征伐にも参加して豊前宇留津城攻撃で功績を挙げた。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐にも毛利水軍を率いて三沢為虎・熊谷元直・吉見広頼らと共に伊豆下田城を落とした〔益田市、P684 - P692〕。文禄の役は吉川広家に従って出陣、碧蹄館の戦いでもその武略を発揮し明の軍勢を撃退している。慶長の役でも渡海して朝鮮に渡り、蔚山城の戦いにおいても広家と共に敵を撃退している。 妻の益田の局は毛利輝元から石見国美濃群で370石、さらに石見国那賀群長安で50石の知行を与えられている〔宮本義己「武家女性の資産相続―毛利氏領国の場合―」(『國學院雑誌』76巻7号、1975年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益田元祥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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