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相馬 顕胤(そうま あきたね、永正5年(1508年) - 天文18年2月2日(1549年3月1日))は相馬氏第十四代当主。相馬盛胤の子。通称は孫次郎。 == 生涯 == 伊達稙宗の長女を娶り、天文の乱には懸田俊宗・義宗父子と共に第一の稙宗方として活躍した。 『奥相茶話記』によれば、顕胤は、懸田義宗とともに、いったん西山城の稙宗を救出し懸田城(掛田城・伊達市霊山町掛田【茶臼山公園】)に移したが、後再び晴宗は稙宗を西山城に幽閉したので、顕胤は和解の交渉につとめたが伊達晴宗は従わず、戦いを交えるにいたったという。 天文十二年(1543年)9月、長谷倉新兵衛あての書状の中で稙宗は「相馬氏懸田より日々出陣せらる。その勇邁比類なし」(「伊達正統次考」)と記しているが、顕胤みずから指揮を取り晴宗を苦戦に追い込んだことが知られる。信夫の大森城の戦い(福島市)では、晴宗方の戦死者100余名に対し、相馬方でも岡田胤通ら60余名の戦死者を出し、また平沢の合戦でも水谷式部(水谷胤重の父か)・青田能登はじめ30余名の戦死者を出している(『東奥中村記』・『奥相茶話記』)。伊達郡高子原の戦いでは晴宗の軍を破り、稙宗を西山城から救出して小高城に送り届けたという(『奥相茶話記』・『給人根元記』)。 稙宗の小高入城のことは伊達氏の資料には見えないが、天文十四年(1545年)六月、晴宗が岩城重隆に当てた書状の中で、「或は謂ふ、宇多の中村(相馬中村城)に在留すと、亦謂ふ相馬に打ち超さると、未だ知らずいかん」」(「伊達正統次考」)とのべていることから、このとき顕胤は岳父稙宗をともなって小高城に入ったものとみてよい。相馬関係の諸資料も稙宗の小高入城を伝えているのが多い。 顕胤は入城に先立って、同慶寺に入り「此者どもの忠死、言語に尽くし難し」(『東奥中村記』)といって戦死者の霊を弔うために十七日間の法要を営み、戦死者の留守宅を弔問し、また在陣中の兵糧輸送に当たった女場(おなば)村、福岡村(南相馬市小高区女場・福岡)の百姓を訪ねその労をねぎらったという(『東奥中村記』・『奥相史』・『奥相茶話記』)。当時は女場村、福岡村ほか三か村を「御台所入用」、「御手作地」などと呼んで、代々領主の私領のような形で食糧をまかなっていた。 小高城に入った稙宗は、その翌年のころ伊具郡丸森城に移ったが、途中千倉庄(南相馬市)石宮を通るとき、かつて岩松義政が岩松四天王らに、主家に叛くことのないように誓詞を石に刻ませたという故事にならって、その起請石に「伊達七世弓を相馬に引くべからず」と墨書きしたという(『東奥中村記』・『奥相茶話記』)。 顕胤の掛田出陣中に、黒木弾正正房・中村大膳義房兄弟が叛き、北郷田中城を攻めようとしたのを討って宇多(うた・うだ)郡の実権を掌握した。天文十二年(1543年)頃である。そして相馬中村城には草野式部直清(草野直清)を、黒木城代には青田信濃を置いた(『東奥中村記』・『奥相史』・『奥相茶話記』・『御経済略記』)。こうして宇多、行方(なめかた)、標葉(しねは)の三郡に実権を及ぼし、戦国大名相馬氏の基礎を固めたのである。 天文の乱が終息した翌年の天文十八年(1549年)2月2日、小高に没し、嫡子盛胤が家督を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相馬顕胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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