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石川 家成(いしかわ いえなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。美濃大垣藩の第2代藩主で、徳川家康の母方の従兄、石川数正の叔父に当たる。伊勢亀山藩石川家2代。徳川十六神将の1人に数えられる〔川口素生『戦国軍師人名事典』P302〕。 == 生涯 == 天文3年(1534年)、石川清兼の三男(次男説もある)として三河国西野(現在の愛知県西尾市)で誕生。母は家康の生母於大の方の妹。家康が今川義元の人質であった頃から仕えた譜代の家臣である。永禄元年(1558年)、寺部攻めで先鋒を務めた。 永禄3年(1560年)の丸根砦攻略戦、同4年(1561年)の鳥羽根城攻略戦、同6年(1563年)の三河一向一揆鎮圧戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦いのいずれにも参戦し、西三河の旗頭(東三河は酒井忠次)として家康初期の覇業に貢献した。三河一向一揆の際は熱心な一向宗信者であったにも関わらず、父の清兼と共に他宗に改宗して家康に忠誠を尽くした〔。 永禄12年(1569年)、今川氏真が没落したため、遠江国掛川城主に任命されている〔川口素生『戦国軍師人名事典』P303〕。同年、甥の数正に西三河の旗頭の地位を譲っている〔。 天正8年(1580年)、長男の康通に家督を譲って隠居した。天正18年(1590年)、後北条氏滅亡後に家康が関東に移封されると、伊豆梅縄に5000石の隠居料を与えられた。 慶長12年(1607年)、大垣藩初代藩主であった康通が死去したため、家督に復帰して第2代藩主となる〔。ただし1度隠居した身で、また高齢のためか幕政には関与していない〔。慶長14年(1609年)10月19日(29日とも)に死去した。享年76。跡を外孫で養子の忠総が継いだ。 家康無二の忠臣と言われ、その信任は厚かった。その経緯から家成の死後、本来なら無嗣断絶するところを石川家は存続を許された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川家成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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