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石川 総佐(いしかわ ふさすけ)は、伊勢亀山藩の第6代藩主。伊勢亀山藩石川家11代。 == 生涯 == 寛政7年(1795年)3月10日、第6代藩主・石川総師の長男として江戸で生まれる。享和3年(1803年)、父の死去により家督を継いだ。文政3年(1820年)3月22日、養嗣子の総安に家督を譲って隠居する。6月14日、江戸で死去、享年26。 天明2年(1782年)、亀山藩領河芸郡南若松村(現鈴鹿市若松中)の船頭大黒屋光太夫等17名が白子浦を出航後、駿河沖で暴風にあいアリューシャン列島まで漂流し、ロシアに保護され、総佐治世下の寛政3年(1791年)ロシア皇帝の許しを得て遣日使節アダム・ラクスマンに伴われ光太夫以下3名が根室に上陸し、漸く帰国した。光太夫等は江戸に留め置かれたが、江戸の亀山藩邸を通じてヨーロッパ・ロシアの様子が伝えられた。総佐は光太夫がもたらした話に驚き、藩主自らフランス語の習得に勤め蘭学を学び、家中においても蘭学を学ぶことを奨励した。文化14年(1817年)には算術家代官を京都に留学させヨーロッパでの天文学・算術、中国の天文学研究を命じた。また、軍制改革の必要性を感じ多数の兵士より武器の充実を目的に小銃隊の編成を改めた。小銃隊の改編について「鈴鹿郡野史」では「欧化主義のハイカラ城主総佐の意見による」と記されている。 総佐の後嗣として、文政元年(1818年)弟総章の養子願いを幕府に対し行っていたところ、総章は養子許可前に病没してしまった。このことを知った水戸藩より藩主徳川斉脩の弟斉昭(後に水戸藩主、徳川慶喜の父)を総佐養嗣子としたい旨の申し出があった。時の亀山藩家老名川大内蔵は藩主意向や藩内議論に従い水戸藩申し出を断り、支藩常陸下館藩主の次男総安を総佐の養子として迎えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川総佐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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