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石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )は日本の騎手、調教師。 1951年に国営競馬(のち日本中央競馬会)で騎手デビュー。1959年に引退し、1965年より調教師。主な管理馬には1980年秋の天皇賞に優勝した牝馬プリテイキャストなどがいる。また横山典弘は門下生である。2000年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石栗龍彦は長男〔。 == 経歴 == 1928年、北海道札幌市の商家に生まれる〔。取り立てて競馬に興味をもってはいなかったものの、騎手見習いとなった友人に誘われて競馬場に出入りをはじめ、馬に惹かれていった〔『調教師の本VII』pp.6-13〕。太平洋戦争中には援農作業で農耕馬を扱っていた〔。 1945年に旧制北海中学を卒業し〔〔出身校は『調教師の本VII』では札幌一中、『騎手銘鑑』では函館商業とされている。〕、1947年秋に稗田虎伊のもとへ騎手見習いとして入門〔『優駿』1983年6月号、p.125〕。稗田門下の矢倉玉男が事実上の師匠となり、1950年に矢倉が自身の厩舎を開業するとそちらへ移った〔。翌1951年に騎手デビューしたが騎乗機会は少なく、また当時の厩舎社会では珍しい旧制中学出身という経歴もあり、事務関係の雑事を他厩舎のぶんまで一手に任されていた〔。こうしたこともあり、本人は「騎手時代にあまり良い思い出はない」と述べている〔。騎手成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で19戦0勝〔日本中央競馬会ホームページ・引退調教師名鑑「石栗龍雄」〕。1956年発行の『騎手銘鑑』では92戦3勝という成績が残っている〔『騎手銘鑑』(『優駿』1956年6月号附録)p.7〕。 1959年に矢倉厩舎の調教助手に転身する。1964年に一度調教師試験に合格したが、管理馬房に中山競馬場・白井分場が充てられると知って辞退〔。翌年再度受験して合格し、希望していた東京競馬場で厩舎を開業した〔。1971年、リキショウがタマツバキ記念を制し、管理馬の重賞初勝利を挙げた〔。1974年には管理馬インターグッドを擁して東京優駿(日本ダービー)に臨んだが、同馬はコーネルランサーと激しく競り合った末にハナ差の惜敗を喫している〔。 1980年、天皇賞(秋)に出走した牝馬プリテイキャストが後続に一時100メートルの差を付けるという大逃げからの勝利を挙げ、石栗も八大競走初制覇を果たした〔。同馬は当年の最優秀古牝馬に選出された。 1988年末、横山典弘の重賞初勝利となったウインターステークスが石栗にとっては最後の重賞勝利となる。1997年からは中央競馬史上4人目の女性騎手・板倉真由子が門下生となっている。 2000年2月をもって定年により調教師を引退。調教師通算成績は4662戦432勝、うち八大競走1勝を含む重賞11勝。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石栗龍雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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