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石田大也 : ミニ英和和英辞書
石田大也[いしだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なり]
 (n) a sum of money

石田大也 ( リダイレクト:石田文樹 ) : ウィキペディア日本語版
石田文樹[いしだ ふみき]

石田 文樹(いしだ ふみき、1966年8月22日 - 2008年7月15日)は、横浜大洋ホエールズ横浜ベイスターズに所属していた、日本の元プロ野球選手投手)。
本名は「石田文樹」で、1994年から1998年までの登録名は「石田 大也」(読み方は「いしだ ともや」)。血液型はA型。
== 経歴 ==
1966年8月22日茨城県新治郡新治村(現:茨城県土浦市)で生まれる。小学校の3年の時に投手として野球を始める。それ以来、投手一筋でやって来た。中学校時代は目立った成績を残していない。
茨城県立取手第二高等学校では当時の監督だった木内幸男の指導の下、1年秋からエース投手になる。高校同期のチームメイトに吉田剛捕手(のち遊撃手)がいた。甲子園に通算3回出場。2年生の時の春の選抜では1回戦で泉州に惜敗。翌の春の選抜にはエース、四番打者として連続出場し、準々決勝に進出するが岩倉に敗退。同年夏の選手権では順調に勝ち進み、決勝でKKコンビ清原和博桑田真澄)を擁するPL学園を破り、優勝を飾った〔『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、P.42-43〕。同年秋の奈良わかくさ国体でも優勝。ちなみに高等学校時代の吉田は1番・遊撃手としてプレーし、2年の秋から3年の秋(国民体育大会の終了後)まで主将を務めていたと言う。
その後、石田は早稲田大学にスポーツ推薦で進学するが、半年で中退し、日本石油に入社。都市対抗野球大会にから2年連続で登板。、第43回JABA東京スポニチ大会にエースとして優勝、最高殊勲選手に選出される。
同年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズに5位で指名され、念願のプロ入りを果たした。背番号は「13」に決まった。同期入団は谷繁元信宮里太井上純堀江賢治佐野貴英山口幸勇田辺学石井琢朗などがいる。大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用が多かった。は8月29日の対中日ドラゴンズ戦で一軍での初登板を果たし、9月9日の対阪神タイガース戦で一軍での初勝利を挙げた。
チームの名前が「横浜ベイスターズ」になってからは背番号が「52」に降格となったが、二軍で中継ぎ投手として起用されていた。には登録名を本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更して心機一転を図るが、良い結果が出せず、この年の年末に現役引退。
現役引退後、横浜に残留し、打撃投手になる。背番号は「88」に決まった。1999年には登録名を再び本名の「石田文樹」に戻した。
2008年7月15日の午後1時40分、直腸癌のため、神奈川県横浜市保土ヶ谷区内の病院で死去〔。没年齢は満41歳。亡くなった日の対広島東洋カープ戦で関係者たちは喪章を付けた。7月17日に通夜が営まれ、7月18日に告別式が営まれた。木内、吉田、KKコンビなどの石田の個人的な関係者を始め、横浜からは当時の監督だった大矢明彦やコーチたちや選手たちやチームの職員たちや裏方職員たちなどの人々が通夜と告別式に参列。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「石田文樹」の詳細全文を読む




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