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石龕寺(せきがんじ)は、兵庫県丹波市にある高野山真言宗の寺院。山号は岩屋山。本尊は聖観音菩薩。岩屋寺(いわやでら)とも称される。もみじの寺、足利氏の寺、仁王像の寺として知られる。竹林山常勝寺(天台宗)、萬松山慧日寺(臨済宗)とともに山南三山の一つ。 ==歴史== 用明天皇の丁未の年である587年、聖徳太子(574年 - 622年)による創建と伝えられる。聖徳太子が深く帰依した毘沙門天を本尊とする。鎌倉時代から室町時代に隆盛を極める。寺号の「龕」とは、仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味する。本堂から山上約800mに奥の院があり、その石窟が石龕寺の寺号の由来となっている。山門の金剛力士像(仁王像)は、慶派の「肥後法橋定慶」によって1242年(仁治3年)に制作された仏像で国の重要文化財に指定されている〔神戸49-50 〕。 南北朝時代、足利尊氏とその弟直義の争いである観応の擾乱にて尊氏が敗れ一時、京都から播磨に逃れる際、嫡子義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めた。このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上すると義詮はその一つに爪痕を付け、 「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ) という歌を添え、栗を植え立ち去った。その後、首尾よくそのとおりとなったため「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられる。 南北朝・室町時代に入ると、丹波国井原庄の石龕寺(岩屋寺)の修験者達の活動が知られるようになる〔久下〕。彼等は熊野先達として近隣の村々から旦那を引き連れて熊野本宮に向かったようで、「熊野本宮大社文書」の中に残された、南北朝・室町時代から戦国時代にかけての御師文書の中に、石龕寺先達として法忍坊(応安2年〈1369年〉)、実行坊(応安7年〈1374年〉)、宝泉坊(応安7年〈1374年〉)、教善坊(嘉慶2年〈1388年〉)、乗泉坊(明徳4年〈1393年〉)、実行坊(同年)、尾崎坊(応永22年〈1415年〉)、福聚院(応永25年〈1418年〉)、西芳院(永享10年〈1438年〉)、井坊(康正3年〈1457年〉前後か)などの坊名・院名が散見される〔「熊野本宮大社文書」pp964-987(『和歌山県史 中世史料二』)〕。 中世末期の戦国時代には織田信長(明智光秀)の丹波攻略を受け、1579年(天正7年)には兵火により全山ことごとく焼失、仁王門を残すのみとなる。江戸時代以降に徐々に復興。奥の院(1994年)、毘沙門堂(本堂)、鐘楼堂、持仏堂、庫裏、客殿などが再建された。 境内には1241年(仁治2年)創建の焼尾神社があり石龕寺の鎮守として弁才天が祀られていたが、明治の神仏分離により市杵島比売命を祀ることとなり、弁才天は石龕寺に保管されているが、未だに弁才天の幟が立てられ、幸運、財宝、福徳の神として作家、音楽家、歌手、俳優に人気がある。本堂前の石段左手の中国原産スギ科「コウヨウザン」は高さ37mで県下最大。客殿前の谷の「大槽(おおぶね)谷の水」は、聖徳太子が毘沙門天像を洗い、水面が常に黄金に輝いていたとの伝説があり古来名水、霊水として知られる。 境内にはもみじが多く、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催され護摩供養、武者行列などの行事が催され多くの参拝客で賑わいを見せる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石龕寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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