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『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。明和7年(1770年)1月、江戸外記座にて初演。福内鬼外(平賀源内)・吉田冠子・玉泉堂・吉田二一の合作。 == あらすじ == === 初段 === (南朝大内の段)後醍醐天皇崩御の後、いまだ皇統が南北朝に分かれていた時のこと。京の都には北朝の後光厳天皇が在位し、吉野では南朝の後村上天皇が、公家たちにかしづかれつつ日を暮していた。 南朝方はなんとか巻き返しを図ろうと、足利尊氏のいる鎌倉を攻めようと計画し、新田義興を大将として差し向けることになった。延文四年九月半ばのことである。義興は吉野の朝廷に参内し、鎌倉攻めについて四条隆資より意見を聞かれる。義興は、尊氏の威勢盛んな今の状況では出陣しても不利であり、時節を待って京都を襲撃すべきだと答える。しかし坊門清忠はそんな義興を卑怯未練の臆病者と罵り、これは綸言であると迫る。臆病者呼ばわりされ内心腹の立った義興だったが、致し方なく討死を覚悟しつつ、鎌倉攻めを勅命として受け入れた。義興はせめてものことに、新田家の家宝「水破兵破の矢」を持って出陣したいと言上した。この矢は新田家の先祖である源頼光が夢中に得たという言い伝えのある品で、それを南朝の朝廷に預けていたのだが、清忠はその願いも理屈をつけて退けようとする。しかしこれまでの様子を見ていた後村上帝は、隆資を通して水破兵破の矢を義興に授けた。義興は飛び退って礼をし喜ぶ。 義興は矢を持って退出すべく門を過ぎようとした。すると思いもよらぬ落とし穴に嵌り、その上に大石が落ちてきて穴をふさごうとする。だが義興はこの大石を両手で持ち上げ、塀の外へ投げ飛ばした。塀の外には義興を狙う者たちがいたが、それらの上に石が落ち十人あまりが即死し、残った者は恐れをなして逃げ出すのであった。 (九条揚屋の段)さて義興には新田小太郎義岑という弟がいたが、京の九条にある遊郭井筒屋に居続け、今日も馴染みの傾城うてなを相手に幇間や芸妓も呼んで遊んでいる。 だが井筒屋の別の座敷には、義岑にとっては敵に当たる鎌倉武士の竹沢監物秀時と江田判官景連、そして尊氏の執権職畠山入道道誓もいた。道誓はかねてより南朝の坊門清忠とも通じており、新田と足利を共倒れするよう争わせ自らが天下を握ろうと企んでいた。義興が吉野の御所を退出するとき落とし穴を設け、その上から大石を落として殺そうとしたのも、道誓の手の者による仕業であったが、これはうまくいかなかった。そこで今度は弟の義岑を騙そうと竹沢が企む。すでに道誓の家来ふたりが幇間に化け、それとなく義岑の様子を見張っていた。 子の刻を過ぎたが、義岑とうてなは起きて話をしている。そこへばたばたと物音がするので、ふたりは物陰に身を隠した。見れば竹沢監物が道誓と江田判官二人を相手に争い、やがて竹沢は痛めつけられ柱に縛りつけられた。竹沢が道誓の命を狙おうとしていたのだという。後の始末は家来たちに任せ帰ろうといって道誓と江田はその場を去った。 うてなは近寄って竹沢の戒めを解いた。竹沢は、今は尊氏に従っているが本心は新田家に心を寄せており、それ故にさきほど道誓を襲おうとしたのだが失敗した、無念であると涙をはらはらとこぼす。そこへ義岑を捕らえるためと称して道誓の家来たちが乱れ入りうてなを奪おうとするが、竹沢はそれらをなぎ払い退けたので、義岑も竹沢のことを信用する。義岑は竹沢を伴にして井筒屋を出るのだった。 (八幡山の段)義興はいよいよ鎌倉へ向うことになり、その軍勢が岩清水八幡宮のある男山に夜集まっている。義興は弟義岑、竹沢監物を側に従え、今回の戦は状況が悪く勝つ見込みは少ないが、清忠に卑怯者と呼ばれたままでは先祖の名にまで関わることなので、この岩清水八幡にあまたの火をともした灯籠を献じ、神の加護を得て出陣するのだと皆に話した。 だがそこに突風が吹き、灯籠の火はひとつだけを残していっせいに消え、暗闇となった。義岑はこれを見て、今度の戦が敗軍に終るとの神託であろうと、それとなく出陣を留めたが、竹沢は逆に尊氏を滅ぼすことができるとの知らせであろうと説く。もとより義興は、討死を覚悟して戦場に赴くつもりであった。だが義岑はあとに残って吉野の帝を守護せよと義興はいう。義岑は驚き、生きるも死ぬも兄弟一緒、連れて行くよう訴えたが、義興は水破兵破の矢を義岑に授け、自分に代わってこの新田家の家宝と吉野の帝を守れ、そうでなくば「未来永々勘当ぞ」と言い渡した。これが弟とは今生の別れになるかと義興は目に涙する。義岑も致し方なく義興の言葉に従い矢を受け取ると、義興は軍勢を従えて出陣した。 あとにはひとり残された義岑が、さびしい気持で義興たちを見送る。すると、いきなり声が上がった。なにごとかとあたりを睨み立つところへ現れたのは、幇間や禿などを大勢従えた傾城うてな。うてなは義岑が義興とともに出陣すると聞き、せめて見送りにとここまで来たが、義興たちのいる手前、出てこられずに物陰に控えていたのだという。だが義岑が出陣せず残された様子を見て、義岑とは離れたくなかったうてなは大喜びし、義岑はうてなに手を引っ張られて幕の内に入った。 幇間の五作と小吉、じつは畠山道誓の家来石原丹治と速見伝吾は、この隙を狙って水破兵破の矢を盗み出し、道誓に届けようとその場を走り去った。兄義興に託された大事の矢が盗まれたことに気付いた義岑、その申し訳に切腹しようとするが、うてながこの場は生きながらえて矢を探すべきと止める。そこへ石原と速見が手勢を率いて立ち返り義岑を殺そうとする。義岑は応戦するも多勢に無勢、すでに危うく見えるところに新田の家臣、篠塚八郎重虎が駆けつけ、敵の手勢を退けて義岑とうてなを逃がした。石原と速見も篠塚に斬りつけようとするが討ち取られ、手勢もちりぢりに逃げ去る。まずはこの顛末をあるじ義興に知らせようと、篠塚は義興のあとを追いかけるのであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神霊矢口渡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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