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福島 次郎(ふくしま じろう、1930年(昭和5年) - 2006年(平成18年)2月22日)は、熊本県出身の小説家。「詩と眞實」同人。 == 経歴 == 1930年(昭和5年)、私生児として熊本県熊本市に生まれる。継父は暴力団の組長。中学卒業後、貯金局に勤務。1947年(昭和22年)、上京して東洋大学専門部国漢科に入学。1950年(昭和25年)、東洋大学専門部国漢科修了。1950年(昭和25年)夏、熊本に帰郷中、三島由紀夫の『仮面の告白』を読み衝撃を受ける。 同年秋、再度上京し、東洋大学国文学科に入学。福島によると1951年(昭和26年)5月(実際には1951年(昭和26年)7月1日)、『禁色』に出てくるゲイバア・ルドンのモデルとなった店について問い合わせる手紙を持参し、ファンであった三島由紀夫の自宅を訪問したことから三島と知り合う。そして福島の話によると、三島の愛人(表向きは書生)となったが(しかし三島は生涯、秘書や弟子、書生などは付けない方針であった)、同年の夏、伊豆にて福島の側から縁を切る形で三島との愛人関係に一旦終止符を打ったという。そして、この時のことを三島は深く恨んだために、『禁色』の第二部である『秘薬』(文学界 1952年8月号 - 1953年8月号に連載)のなかに「福次郎」という名の同性愛者を登場させたという。作中で「福次郎」は金銭に汚い卑劣の役どころとなっている。 1953年(昭和27年)、東洋大学国文学科を卒業。卒論のテーマは井原西鶴。熊本県立八代工業高等学校に国語教師として勤務する傍ら、同人誌に小説を書き続けた。 1961年(昭和36年)、『現車(うつつぐるま)』で第3回熊日文学賞を受賞。その単行本を三島由紀夫に送る。1962年(昭和37年)春、上京して三島邸を訪問し三島と再会する。そのとき三島から、「君も結婚したらどう?」、「今のぼくに何が世の中で大事かときかれたら、女房と子供だと答えるよ」と言われたという。そしてその後4年間、文学のアドバイスや近況報告などの手紙のやりとりがあり、1966年(昭和41年)8月27日、神風連の取材で熊本県を訪れた三島を出迎え、県内を案内する。1967年(昭和42年)11月18日、瑤子夫人に同性愛関連のこと(具体的にはそうは書かれていないため推測による)が目に入ることを恐れた三島からの来信がきっかけで、以後、福島は返信を出さなくなり文通が途絶え、三島と疎遠となる。 1975年(昭和50年)、『阿武隈の霜』で第8回九州文学賞を受賞。1987年(昭和62年)に教職から退いた後は文筆活動に専念。 1996年(平成8年)、高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』が第115回芥川賞候補となる。この小説は石原慎太郎が強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。一方、古井由吉は、「少年愛の微妙をめぐるものながら、男の異性愛と平行をなすと私は見る者だが、対象を異性にした場合、この時代ではおそらく、表現は成り立ち難いのだろう」、「しかし現代の彼等たちを、いささか恥じさせるところのある作品ではある。ただし末尾のバスタオルの悪臭は、『バスタオル』全篇を侵したと思われるが」としている。1999年(平成11年)には、同性愛者の兄弟の絆を描いた『蝶のかたみ』が第120回芥川賞候補となった。 1998年(平成10年)3月20日、三島由紀夫との愛憎関係を綴った『三島由紀夫-剣と寒紅』を出版。「三島の思想や文学を理解する上で貴重な資料だ」などと賞賛される一方、「単なる暴露本に過ぎない」との批判も浴びた。板坂剛は、同性愛行為を描いている文章部分も、意識を失っていたはずの福島が克明に描写するのはおかしいと矛盾点を指摘している。また、「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」という見解を示し、「文藝春秋の人間でさえ、福島には妄想癖と虚言癖がある、と認めている」と述べている。板坂剛は、「スーパースターとの過去をひけらかすことで売名に成功した松田聖子の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは、小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している。 1998年(平成10年)3月24日、『三島由紀夫-剣と寒紅』で三島の書簡を無断で掲載したことが著作権侵害に当たるとされ、三島の遺族である長女・冨田紀子と、長男・平岡威一郎から、同書の出版差し止めを求める訴訟を起こされた。福島次郎は版元の文藝春秋と共に最高裁まで争ったが、2000年(平成12年)5月23日に敗訴が確定した。 晩年は健康を害して入退院を繰り返したが、その間も2005年(平成17年)に、『花ものがたり』、『淫月』などを発表。また、県民文芸賞の選考委員も務めるなど精力的な活動を続けた。2003年(平成15年)から2005年(平成17年)まで、自伝的小説『いつまで草』を、同年4月からは随筆『花のかおり』を、熊本日日新聞紙上に連載していた。 2006年(平成18年)2月22日午前4時40分、膵癌のため熊本市の病院で死去。享年76。2月24日に葬儀が営まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福島次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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