|
禧嬪張氏(きひん ちょうし、ヒビン チャンシ、順治16年9月19日(1659年11月3日) - 康熙40年10月10日(1701年11月9日))は、李氏朝鮮の第19代国王粛宗の嬪。朝鮮史上唯一の中人出身の王妃(後に嬪に降格)。第20代国王景宗の生母。張禧嬪(ちょう きひん/チャン ヒビン)とも呼ばれる。実名は玉貞(オクチョン)。本貫は仁同。諡号は大嬪宮玉山府大嬪。 == 生涯 == 張氏〔「禧嬪(ヒビン)」は身分の称号であるため、本項目では「禧嬪張氏」「張禧嬪(チャン・ヒビン)」ではなく「張氏」と記す。〕は中人(仁同張氏)の出身で、仁祖の継妃で粛宗の曾祖母に当たる荘烈大王大妃の女官として宮中に入った。しかしながら、1680年10月から1681年3月の間に宮廷から追われた。 当時の朝鮮では西人派と南人派の党派争いが展開されており、西人派が仁顕王后閔氏を後ろ盾に政権を握っていた。しかし仁顕王后は王妃に立てられてから6年を経ても子供に恵まれなかった。そこに目をつけた荘烈大王大妃を始めとする南人派は康熙25年(1686年)に「美貌に秀でた」〔『朝鮮王実記』の記述。〕張氏を再度、後宮に送りこみ、承恩尚宮(スンウンサングン、正五品相当)とした。 張氏は1686年12月10日に「淑媛」(スグォン、従四品相当)に立てられ、さらに1688年に「昭儀」(ソイ、正二品相当)へと昇進し、同年10月27日には王子李昀(後の景宗)を生む。康熙28年(1689年)1月15日にはその功労によって「嬪」(ピン、正一品相当。側室の最上位)に昇進し「禧嬪(ヒビン)」と号され、李昀は王世子に立てられた。さらに同年5月2日、仁顕王后は廃され、1690年10月22日に張氏が王妃に冊立された(己巳換局)。この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれたが、替って南人派が権力を握ることになった。 一方、西人派ではを中心に仁顕王后の復位運動(「閔氏重定運動」)が展開された。南人派の権力がかつての西人派のように増長することを危惧した粛宗が、仁顕王后を妃に復位することで張氏を後ろ盾にする南人派を牽制しようと企んだことにより、康熙33年(1694年)4月12日には張氏は王妃から「嬪」に格下げされ仁顕王后が復位した(甲戌換局)。 康熙40年(1701年)に仁顕王后が病没すると、西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。その結果、1701年10月10日、張氏は粛宗から賜薬により処刑された。享年42。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禧嬪張氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|