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秋山好古 : ミニ英和和英辞書
秋山好古[あきやま よしふる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
好古 : [こうこ]
 (n) love of antiquities
: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand

秋山好古 : ウィキペディア日本語版
秋山好古[あきやま よしふる]

秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日1859年2月9日)- 昭和5年(1930年11月4日)は、日本陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。
日本海海戦で先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之は実弟にあたる。
== 年譜 ==

* 安政6年(1859年1月7日1859年2月9日):伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100文に相当〔100文銭として発行され、明治維新後は新貨8厘に通用した。『新訂 貨幣手帳』/株式会社ボナンザ/1982年→同書・pp150-151およびp178による。〕)にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。
* 明治8年(1875年):大阪師範学校受験。その後大阪師範学校合格。
* 明治9年(1876年)7月:大阪師範学校卒業。大阪府北河内(寝屋川市堀溝)58番小学校、名古屋師範学校附属小学校勤務。
* 明治10年(1877年)5月:陸軍士官学校(旧制3期生)に入学。
* 明治12年(1879年12月23日:陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉東京鎮台に配属される。
* 明治13年(1880年
 * 2月28日:東京鎮台騎兵第1大隊付となる。
 * 3月22日:秋山家の家督相続(病床の長兄・則久の代替)。
 * 6月5日正八位に叙位。
 * 7月2日:東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動。
* 明治16年(1883年
 * 2月28日:任陸軍騎兵中尉
 * 3月16日:陸軍士官学校騎兵科教官に異動。
 * 4月7日従七位に昇叙。
 * 4月9日陸軍大学校(1期)入学。
* 明治18年(1885年12月28日:陸軍大学校卒業。参謀本部勤務。
* 明治19年(1886年
 * 4月12日東京鎮台参謀に異動。
 * 6月2日:任陸軍騎兵大尉
* 明治20年(1887年7月25日サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。
* 明治23年(1890年12月19日:父・久敬が松山で死去。
* 明治24年(1891年
 * 12月13日:帰国。
 * 12月26日:騎兵第1大隊中隊長に異動。
* 明治25年(1892年
 * 4月27日:陸軍士官学校馬術教官に異動。
 * 11月1日:任陸軍騎兵少佐
* 明治26年(1893年
 * 1月11日:従六位に昇叙。
 * 4月2日:佐久間多美と婚姻。
 * 5月5日:騎兵第1大隊長に異動。
* 明治27年(1894年):日清戦争に従軍。
* 明治28年(1895年5月10日:任陸軍騎兵中佐
* 明治29年(1896年
 * 3月24日正六位に昇叙〔『官報』第3818号 明治29年3月25日 敍任及辭令
 * 8月15日陸軍乗馬学校長に異動。
* 明治30年(1897年
 * 10月11日:任陸軍騎兵大佐
 * 10月30日従五位に昇叙。
* 明治31年(1898年10月1日陸軍騎兵実施学校長に異動。
* 明治32年(1899年10月28日陸軍獣医学校長を兼務。
* 明治33年(1900年7月17日第5師団兵站監に異動。
* 明治34年(1901年
 * 5月30日:軍司令官・山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に異動。
 * 7月4日:清国駐屯軍守備司令官に異動。
* 明治35年(1902年
 * 6月21日陸軍少将に昇任。
 * 10月20日正五位に昇叙。
* 明治36年(1903年)4月2日:騎兵第1旅団に異動。
* 明治37年(1904年):日露戦争において、騎兵第1旅団長〔編成としては旅団であったが、実際は歩兵砲兵を編入していたので戦闘単位としては「支隊」であり秋山支隊と言った。編成は支隊主力、三岳支隊、豊辺支隊、種田支隊の4個支隊からなる。〕として出征し、第2軍に属して、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。
* 明治38年(1905年6月19日:母・貞死去。
* 明治39年(1906年
 * 2月6日:騎兵監
 * 4月:金鵄勲章功2級受章。
* 明治40年(1907年)11月11日:従四位に昇叙。
* 明治42年(1909年8月1日:任陸軍中将
* 大正元年(1912年)12月28日:正四位に昇叙。
* 大正2年(1913年1月15日第13師団長に異動。
* 大正4年(1915年2月15日近衛師団長に異動。
* 大正5年(1916年
 * 1月31日従三位に昇叙。
 * 8月18日朝鮮駐剳軍司令官に異動。
 * 11月16日:任陸軍大将
* 大正6年(1917年8月6日:軍事参議官に異動。
* 大正8年(1919年
 * 3月10日正三位に昇叙。
 * 5月12日:馬政委員会委員長に異動。
* 大正9年(1920年)12月28日:教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。また、軍事参事官を併任。
* 大正12年(1923年
 * 3月17日予備役に編入(元帥位叙任の話もあったが本人が固辞した)。
 * 4月30日:特旨をもって従二位に叙位。
* 大正13年(1924年)4月:私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長就任。予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事であったが、本人の強い希望だったと言われる。
* 昭和5年(1930年
 * 4月9日:校長辞任。
 * 11月4日糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。墓所は東京港区の青山霊園。なお、有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秋山好古」の詳細全文を読む




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