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稷山の戦い(ショクサンのたたかい)は慶長の役において日本軍と明軍との間で戦われた戦闘。文禄・慶長の役を通じて両軍が予断を行わずに、正面切って戦った唯一の野戦である。 == 背景 == 文禄の役の後続いていた講和交渉は決裂し慶長の役が始まった。慶長2年(1597年)の作戦目標は全羅道を成敗し、忠清道その他にも出動することで〔赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』 〕、目標の達成後は城塞(倭城)を築城し、城の在番担当を定め、それ以外の軍は帰国する計画が定められていた〔右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』〕。 釜山周辺に布陣していた日本軍は7月16日漆川梁の海戦で朝鮮水軍を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城と黄石山城で守りを固めていた。 日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とし(黄石山城の戦い)、両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領した。ここで諸将は軍議を開き全羅道及び忠清道を平定するため各地へ分進していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稷山の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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