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立田 清辰(たつた きよとき〔 / きよたつ〔、1890年(明治23年)8月〔『新編日本の歴代知事』344頁。〕 - 1942年(昭和17年)7月28日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』762頁。〕)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 ==経歴== 岐阜県吉城郡出身〔。第七高等学校造士館を卒業。1916年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、逓信省に入省。1918年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に転じ鳥取県属となる〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』222頁。〕。 1919年、香川県警察部刑務課長に就任。以後、神奈川県警視、内務事務官、徳島県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長などを歴任。1929年、朝鮮総督府に転じ同事務官・警務局図書課長、同保安課長を務める。1933年、山梨県内務部長に転じ〔、1935年1月、宮城県書記官・総務部長に就任〔『官報』第2416号、昭和10年1月24日。〕。 1936年4月、鳥取県知事に就任。前任知事の方針を基本的に踏襲し、従来の事業を見直した財源により、県立盲唖学校の創設、水産試験船建造、鳥取県振興会の設置などを実施した〔『新編日本の歴代知事』768頁。〕。1939年1月、千葉県知事に転任。戦時体制の確立などに尽力。1941年5月に知事を退任し、同年に退官〔〔。その後、住宅営団理事となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立田清辰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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