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竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日‐昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 == 人物 == 岡山県窪屋郡白楽市村(倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。98年に陸軍士官学校に入学する(11期)〔『最新 右翼辞典』2006年、P.396.「竹内賀久治」の項、L4。〕 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校(現法政大学)夜間部に通い、明治44年(1911年)に司法試験合格。翌年弁護士を開業する。 雑誌に書いた論文を同郷の平沼騏一郎に絶賛されたのを機に、懇意となる。東大の上杉慎吉に師事〔立花隆著『天皇と東大 上』470頁〕、学生団体興国同志会の機関誌『国本』を太田耕造と共に発行した。この興国同志会を基盤に、大正13年(1924年)に国本社を設立。平沼が会長となり、山川健次郎や東郷平八郎らを顧問に招いた。 当初東京弁護士会に所属していたが、役員選挙の激烈化に伴い新しく設立された第一東京弁護士会に移る。しかし、両者の対立はおさまらず、関係者や新しい会を作ろうとする勢力から“第三極たる弁護士会”が要請されたため、竹内は、自身が中心となって作った法律研究家の団体である「知新会」を率いて第二東京弁護士会を創立した。後に会長となる。 昭和11年(1936年)に法政大学の常務理事に就任し、昭和18年(1943年)に法政大学総長に就任する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹内賀久治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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