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==概要== 第1次山本内閣瓦解後、徳川家達・清浦奎吾に大命が降下するがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。1914(大正3年)4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明が外務大臣として大隈を補佐した。 第1次世界大戦が勃発すると、ドイツに宣戦を布告。山東半島・南洋諸島からドイツ勢力を駆逐すると、中華民国北京政府に対して対華21ヶ条要求を提出した。北京政府はこれを認めたものの、これを内外の情勢に配慮しない加藤外相の独走と見た元老西園寺公望らからは不興を買った。 その後、元老山縣有朋との約束である二個師団増設問題の解決に務めるものの、衆議院第1党である立憲政友会がこれに強く反対した。このため衆議院解散を行って第12回衆議院議員総選挙に臨んだが、その際山縣系官僚の大浦兼武内務大臣が大規模な選挙干渉を行った。その結果与党は勝利して立憲同志会が第1党になったものの、選挙後に内外の批判を浴びて大浦内相は辞任、大隈も加藤外相の助言により1915年(大正4年)7月31日に内閣総辞職を決定する。しかし大正天皇の即位礼を目前に控えたこの時期の総辞職には元老が納得せず、そこで大隈は加藤高明・若槻禮次郎ら総辞職派の閣僚を更迭して同年8月10日に内閣改造を行った。ところが即位礼と二個師団増設法案の審議が終わると、予算案を巡って政府と貴族院との対立が激化。元老はこれ以上の大隈続投を好まず、結局大隈は内閣総辞職するに至った。その際、大隈は後継首班に加藤高明を推奏、元老会議は朝鮮総督の寺内正毅を奏請するが、大正天皇は後者に組閣を命じることにしたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第2次大隈内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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