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第一次エチオピア戦争(だいいちじエチオピアせんそう、First Italo–Ethiopian War)とは、1889年から1896年にかけて戦われた、エチオピア帝国とその植民地化を図るイタリア王国との戦争。エチオピアに対する当時のヨーロッパ側からの俗称であるアビシニアを用いて、(第一次)アビシニア戦争とも呼ばれる。 ==背景== 当時、アフリカ唯一の独立国と呼ばれたエチオピアはラスと呼ばれる地方軍閥による反乱と王位簒奪が繰り返される時代を迎えており、周辺国(スーダンなど)との戦争も行われていた。加えてテオドロス2世の時代にイギリス軍とのマグダラの戦いに敗れ、ヨハンネス4世の時代にはイタリア王国との間でエリトリア戦争が勃発、エリトリアを実効支配されるなど海外勢の侵略も本格化していた。 そんな中、エチオピア帝国の属国であったショア王国のメネリク2世はエリトリアのイタリア駐屯軍の支援を受けて対立する勢力を破り、ティグレ地方・アムハラ地方を征服して1889年3月25日にエチオピア皇帝へ即位した。5月2日、メネリク2世はイタリアとのウッチャリ条約を締結した。その条約はエチオピアが既に占領されているエリトリアの割譲を認め、代わりにイタリア側が引き続いてメネリク2世の新政権を支援するという内容であった。 しかし条約のイタリア語の内容とアムハラ語の言い回しは異なっており、アムハラ語の文章では「エチオピアは他国との外交をイタリアに必ず通告せねばならない」と書かれるに留まっていたが、前者は外交権を含めて多くの統治権限を喪失するいわば保護国化に近い内容になっていた。1895年、メネリク2世の抗議に対してイタリア政府はアムハラ語の文章も言い回しの違いだけで内容は同じであると返答、メネリク2世は条約を破棄すると宣言した。 イタリア政府は経済面の問題から、増援を送らずオレステ・バラティエリ将軍のエリトリア駐屯軍に侵攻を命じた。この背景にはエリトリア戦争での経験から、非近代的なエチオピア軍は数的に多数でも火力で圧倒できると踏んでいた為でもあった。またエチオピア内のラスが反乱を起こす可能性も考慮されていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次エチオピア戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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