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第一次チャールストン港の戦い(だいいちじチャールストンこうのたたかい、)は、南北戦争の1863年4月7日にサウスカロライナ州チャールストン近くで起きた戦闘である。攻撃したのは北軍海軍の装甲戦闘艦9隻の戦隊であり、その中には当初のUSSモニターの改良艦7隻が含まれていた。この攻撃に協力するはずだった北軍陸軍が戦闘に加われなかった。サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将の指揮下にあった艦船が、チャールストン港入り口近くにあった南軍の防御陣地を攻撃した。ワシントンD.C.の海軍省役人は、重砲を搭載した戦闘艦で伝統的な砦の防御力を下げさせるという新しい形態の戦闘の有効性を示す圧倒的な成功を期待していた。 デュポンは、7隻のパセーイク級モニター艦と、強力なUSSアイアンサイド、さらに実験的装甲艦であるUSSケオククを任されていた。海軍の資源がチャールストン港への攻撃に向けられたので、他の海軍作戦は中断させられていた。長い準備期間を要した後、潮の状態と可視性で攻撃に進むことが可能と判断された。速度の鈍いモニター艦が午後のかなり遅くに戦列に付き、潮の向きが変わったときに、デュポンは作戦を中断しなければならなかった。砲撃は2時間足らず続き、戦隊は港防衛の第一列ですら突破できなかった。戦隊の1隻が沈みかけた状態となり、他の艦船も損傷を受けて、戦隊は後退した。戦隊乗組みの水兵1名が戦死し、21名が負傷した。一方南軍は5名が戦死、8名が負傷した。デュポンは戦隊の艦長達と相談した後、それ以上攻撃してもほとんど成功の可能性が無いと判断した。よって翌朝の戦闘再開を止めた。 == 背景 == === 北軍 === 1862年後半、さらに1863年初期になっても北軍の戦況はあまりうまく行っていなかった。南軍の北バージニア軍はアンティータムの戦いで撃退されたものの、比較的損傷を受けずに逃れ、北軍ポトマック軍にはフレデリックスバーグの戦いで大敗を味わわせ、その後のポトマック軍は混乱状態になった。西部戦線では、ミシシッピ川の支配を巡る作戦が、ミシシッピ州ヴィックスバーグを前にして膠着状態になっていた。南軍は実際にテキサス州ガルベストンを奪取していた。北部では厭戦気分が明らかであり、秋の選挙は戦争遂行に関する住民投票と見なされ、共和党離れが見えていた。エイブラハム・リンカーン政権はその野戦指揮官達に全国的な士気をあげるような成功を勝ち取るよう大きな圧力を掛けはじめていた。海軍省がチャールストン港攻撃を急ぎ始めたのもこうした雰囲気にあった時だった〔Reed, ''Combined operations,'' pp. 289–281.〕。 1863年、南北戦争の戦いの中心は大半がバージニア州と内陸だったので、チャールストンの軍事的重要性は既に限られたものになっていた。封鎖突破船の母港としての価値は、アラバマ州モービルやジョージア州サバンナと比べてそれほど大きくはなく、すべてノースカロライナ州ウィルミントンの陰に隠れていた〔Wise, ''Lifeline of the Confederacy,'' pp. 233–275.〕。しかし、戦略的な重要性よりも象徴的な価値として標的に選ばれた。海軍の攻撃に参加した者の言によれば、「サムター砦は、北部でも南部でも大衆の心の中で要塞中の要塞、反乱の具現化、攻撃され守られるものとして考えられていた」とされていた〔Ammen, ''Atlantic coast,'' p. 5.〕。 この攻撃を最も強く提唱したのは、海軍省次官補グスタブス・ベイサ・フォックスだった。フォックスは、陸軍に支配される状態から海軍を解放したいという隠された動機があった〔Reed, ''Combined operations,'' p. 264.〕。それ故に総司令官のヘンリー・ハレックがこの作戦で陸軍の役割に同意しなかったとしても、それで妨げられることはなかった。ハレックは10,000名ないし15,000名の訓練が足りない兵士のみを出す用意があり、海軍がいかなる成功を収めたとしても、積極的な役割を担わないものとしていた〔Reed. ''Combined operations,'' p. 269.〕。 海軍省は、サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将の指揮下にあった南大西洋封鎖戦隊の武装艦艇のほとんど全てを割り当てることでこの作戦を支援した。その艦艇にはデュポンの旗艦となる重量級のUSSニューアイアンサイドが含まれていた。パセーイク級砲艦は元々の「モニター」を改良したものとして設計されていた。就役したときにサウスカロライナに派遣されたので、その内の7隻が攻撃に参加できた。さらに実験的装甲砲艦USSケオククが戦隊に加えられた〔Gibbons, ''Warships,'' pp. 26–27; 32–33; 40.〕。 デュポンは装甲艦について海軍省ほど熱心に支持してはいなかった。当時の海岸砲台からの攻撃が何であれ耐えられるようになっていたが、攻撃能力に関してはかなり限られたものになっていた。ニューアイアンサイドは大砲を16門搭載していたが、舷側砲なので1時には8門のみが攻撃できた。他の砲艦は僅か2門の大砲を搭載しているだけだった。パセーイク級砲艦は 15インチ (380 mm) 砲1門と 11インチ (280 mm) 砲1門が搭載され〔The smaller gun on ''Patapsco'' for some reason was replaced by an rifle. Reed, ''Combined operations,'' p. 283.〕、ケオククは11インチ砲2門だった。それらの大砲は敵軍が使う32ポンド砲よりも大きかったが、砲撃間隔が長かった。砲口の掃除、砲弾の充填、照準の固定に7分間を要した〔Tucker, ''Blue and gray navies,'' p. 242. Reed, ''Combined operations,'' p. 283, asserts that it was more like 10 minutes.〕。 デュポンはモニター艦をあまり信頼していなかったものの、チャールストンを占領するための代案を提案したわけではなかった。その代わりに如何に自軍の艦艇を保持するかに集中した。その敗北主義はこの戦闘結果を認識するときに考慮に入れておかねばならない〔Reed, ''Combined operations,'' pp. 284–289.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次チャールストン港の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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