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第二五二海軍航空隊 : ミニ英和和英辞書
第二五二海軍航空隊[だい252かいぐんこうくうたい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第二 : [だいに]
 (n) second
: [に]
  1. (num) two 
: [ご]
  1. (num) five 
海軍 : [かいぐん]
 【名詞】navy, Navy
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
航空 : [こうくう]
 【名詞】 1. aviation 2. flying 
航空隊 : [こうくうたい]
 (n) flying corps
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
: [たい]
 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps

第二五二海軍航空隊 : ウィキペディア日本語版
第二五二海軍航空隊[だい252かいぐんこうくうたい]

第二五二海軍航空隊(だい252かいぐんこうくうたい)は、太平洋戦争における日本海軍の戦闘機部隊の一つ。護衛・迎撃・戦闘・特攻・陸戦に従事した。
== 沿革 ==

=== ラバウル ===
元山海軍航空隊は戦爆連合隊として、仏印進駐を皮切りに太平洋戦争劈頭のインドシナ戦線で活動していたが、昭和17年4月に陸攻隊がラバウルに派遣される一方、戦闘機隊はインドシナに残留することになって、統一指揮が不可能になった。6月に陸攻隊が内地に帰還したことを機に、戦闘機隊も帰還したが、その際に陸攻隊と完全に分離し、大湊海軍航空隊戦闘機隊を編入して、1942年9月20日、252空が木更津飛行場で開隊。第十一航空艦隊第二二航空艦隊に編入。定数・戦闘機60。木更津で練成に従事。
ソロモン諸島で連合軍の反攻が始まったことから、252空はラバウル進駐を目指して練成が始まる。1942年11月1日進出、航空母艦大鷹に搭載し木更津発。第一空襲部隊(第二一航空戦隊)に編入。11月7日ラバウル着。11月12日初動、ガダルカナル島ルンガ岬陣地爆撃隊の護衛。11月17日 ブナ守備隊援護のためラエ飛行場に進出。以後、連合軍の空襲部隊を迎撃。12月23日ニュージョージア島ムンダ飛行場に分遣隊24機進出。12月29日 ムンダ分遣隊、進出翌日からの空襲により壊滅、ムンダ飛行場を放棄。1943年1月3日ブナ守備隊玉砕。ラエ飛行場よりラバウルに撤退。1月4日ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)発動。支援のためブインに進出。1月25日ガダルカナル島航空撃滅戦に参加。1月28日バラレ島に進出。1月29日レンネル島沖海戦勃発、陸攻隊を護衛。2月1日 - 7日ケ号作戦支援。3月11日 ラバウル残留隊、最後の戦闘。陸軍爆撃機のブナ攻撃直衛任務で9機出撃。ブナ上空で連合軍の戦闘機約20機と空戦を行い、18機の撃墜(内、不確実6機)を報じる。
1943年2月20日転進開始。本隊はバラレよりカビエンに進出。一部はブインに残留。2月23日カビエンよりマーシャル諸島方面に進出。3月2日先遣隊、ウェーク島に到着。3月12日ラバウル方面残留隊、マーシャル諸島の本隊に合流下令。全機クェゼリン環礁ルオットウェーク島ナウル島マロエラップ環礁タロアに展開。4月21日ナウルに敵機襲来、4機で迎撃。7月19日ウェーク島に敵機襲来、B-24撃墜2機、4機喪失。9月1日南鳥島に敵機動部隊襲来、ルオット本隊のウェーク進出を企図、のち解除。9月18日タラワ島に敵機襲来、マロエラップ派遣隊の大半をタラワに派遣。10月1日ルオット本隊、マロエラップに前進。10月6日ウェーク島に敵機動部隊・水上艦襲来。空襲・艦砲射撃で派遣隊機体喪失。11月19日ギルバート諸島全土とナウルでタラワ上陸事前空襲。ナウル派遣隊迎撃。11月21日米軍マキン・タラワに上陸。ルオット発の救援陸攻隊の護衛を図るが荒天のため引き返し。23日マキン、25日タラワ玉砕。11月23日ミレ島空襲、マロエラップ隊迎撃。
11月24日翌日までマロエラップ隊の零戦は、爆装してマキン島の艦船に攻撃を実施。21機撃墜報告・16機喪失。飛行隊長周防元成大尉は、爆装で動きが鈍くなり被害が多かったため、飛びもしない分かっていない者が飛べと言う机上の計画で部下を死なすわけにはいかんと司令部に抗議する〔宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫141-146頁〕。
11月下旬から12月上旬に頻発したギルバート沖航空戦マーシャル沖航空戦には不参加。12月に入るとタラワからマーシャル諸島各基地に米陸軍機による空襲が連日のように行われ、邀撃に追われる。12月7日 各地の派遣先より撤退。マーシャル諸島北東にあり、米軍の進攻可能性が最も高いマロエラップに集合する。稼動機30。12月25日マキン島飛行場を第二八一海軍航空隊第五三一海軍航空隊と連合で強襲。1944年1月30日米機動部隊によるクェゼリン環礁上陸事前空襲。マロエラップに延べ90機襲来、機体払底。2月5日搭乗員、マロエラップ脱出。マロエラップに残留していたのは、奇しくも元山空だった第七五五海軍航空隊36名と二五二空24名だった。旧元山空の残留者計60名は、七五五空にかろうじて残った陸攻3機に分乗し、トラックに脱出した。二五二空で脱出したのは副長舟木中佐以下の搭乗員で、司令柳村大佐以下の地上要員は残留した。離陸時、柳村司令は自ら発光信号を手にとって「サヨウナラ サヨウナラ」と見えなくなるまで発信し続けていたという。柳村司令はその後3月31日に戦死した〔神立尚紀『零戦最後の証言』文庫本p244〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第二五二海軍航空隊」の詳細全文を読む




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