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第二次シュレージエン戦争()は、1744年から1745年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、2度目のシュレージエン戦争である。 == 序章 == 1742年6月11日のブレスラウ条約によって第一次シュレージエン戦争を終わらせたオーストリアは、その戦力をフランス、バイエルン連合に集中できるようになった。オーストリアは条約締結後から攻勢に出て、夏から冬にかけての戦役でベーメンを奪回し、1743年春にはバイエルン本領を再び占領した。その後オーストリア軍は、大陸に上陸してきたイギリス軍と共にライン右岸で活発に活動し、フランス軍を後退させて戦況を大いに優位なものとし、ヴォルムス条約によってオランダ、サルデーニャ、加えてザクセンを味方に引き入れた。 このような状況はフリードリヒ大王に大きな危機感を持たせた。大王は自国の戦線離脱によって戦況が急にオーストリア優位に傾くとは予測しておらず、オーストリアを過小評価していた形となった。大王はマリア・テレジアがシュレージエンの強奪を深く恨みに思っていることを知っており、もしオーストリア優位のまま戦争が進めば、遠からずシュレージエンの奪回を求めてプロイセンに報復戦争を仕掛けてくるだろうことは容易に予想された。大王は芸術活動に取り組んだり、フランスからヴォルテールを招いて歓談するなどして平素の風を装いつつ、オーストリアの戦況を油断なく見張り続け、軍の増強に余念がなかった。特に第一次シュレージエン戦争で脆弱性を露呈した騎兵の改善には力が注がれ、加えて1743年秋には大規模な軍事演習を行った。 1743年の冬からプロイセンはフランスおよびバイエルンと交渉を始め、同盟の再構築に向けて動き出した。1744年5月22日にはプロイセン、バイエルンにプファルツ、ヘッセン=カッセルを加えたドイツ4領邦によるフランクフルト同盟が結ばれ、ハプスブルクに押されている皇帝カール7世の勢力を回復させることを確認した。このときバイエルンとの間では、皇帝のためにベーメン王国を取り戻す代償として、プロイセンに北ベーメンを、具体的にはエルベ川北岸領域および対岸のケーニヒグレーツ、パルドビッツ、コリンを割譲することを取り決めていた。同様に6月5日にはフランスとの間にパリ条約が成立し、両国は再び協力してオーストリアと戦うことになった。 並行して大王は、背後を固めるために2つの縁組を成立させた〔アドルフ・フレドリク、ピョートル、エカチェリーナはいずれもホルシュタイン=ゴットルプ家の血を引いており親戚関係にある。〕。一つはスウェーデンと自家との間の縁組で、この頃ロシアとの戦争に敗れたスウェーデンでは後継が問題となっていたのが、ホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレドリクが王位継承者に決まったことを受けて妹ルイーゼ・ウルリーケを嫁がせ、スウェーデンを縁戚とした。もう一つはロシアとの縁組で、女帝エリザヴェータが皇太子ピョートル(後のピョートル3世)の妃に、プロイセンに仕えるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストの娘ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ(後のエカチェリーナ2世)を希望しているのを熱心に仲介して、彼女をサンクトペテルブルクに送り届けた。大王はこれによって女帝の歓心を買うとともに、ロシア帝室に自国の息のかかった人物を送り込むことでロシアの外交政策に影響を与えることを期待していた。 このようにプロイセンが準備万端整える中、ロートリンゲン公子カール(後の皇帝フランツ1世の弟)率いるオーストリア軍主力部隊はライン川を越えてエルザスに進出し、フランス領に侵入した。オーストリアの目的はシュレージエンに劣らぬ因縁の地であるロートリンゲン(ロレーヌ)をフランスから奪い返すことであったが、オーストリアがロートリンゲン目指してラインの彼方に深入りするであろうことを大王は予測していた。プロイセンが再び戦争に加わることに重臣一同は強く反対したが、大王はオーストリアにシュレージエンを諦めさせるには今一度参戦して徹底的に叩き、戦意と勢力を失わせるしかないと主張してこれを退けた。7月12日、プロイセンにオーストリア軍ライン渡河の知らせが届くと、大王はフランスに近日中の参戦のベーメン入りを通告し、取り決め通りフランス軍はオーストリア軍を追って東西からこれを挟撃することを求め、連絡武官としてシュメッタウを派遣した。大王はオーストリア軍の主力が不在の時を見計らって攻撃することによって1740年冬の戦略的奇襲を再現しようとしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次シュレージエン戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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