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第二次スーダン内戦(だいにじスーダンないせん)は、1983年に当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに南部の非アラブ系住民(大半が黒人とアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦である。ほぼ1955年から1972年の第一次スーダン内戦の続きであることから約190万人が死亡し、400万人以上が家を逐われた。第二次世界大戦以降で最も死者の多い戦争の一つである〔Sudan: Nearly 2 million dead as a result of the world's longest running civil war , U.S. Committee for Refugees, 2001. Archived 10 December 2004 on the Internet Archive. Accessed 10 April 2007.〕。またこの内戦で、南部のヌエル族やディンカ族の子どもたち約二万人が、居住地を追われて孤児となり、スーダンのロストボーイズと呼ばれる集団避難民となった。数は少ないがロストガールズもいる。 == 前史 == === 背景 === この戦争は通常、北のアラブ系に支配された政府に対する南の非アラブ系住民の戦いであるとされる。ナイル川沿岸に基盤を置いた王国や列強が数世紀の間スーダンの内陸の人々と戦ってきた。遅くとも17世紀以降、中央政府は南と内陸のスーダンの支配と搾取を試みた〔Lee J.M. Seymour, Review of Douglas Johnson, ''The Root Causes of Sudan’s Civil Wars'' . ''African Studies Quarterly'', African Studies Quarterly, Volume 7, Issue 1, Spring 2003 (TOC ). Accessed 10 April 2007.〕。 イギリスはムハンマド・アリー朝に代わってスーダンを制圧すると、南北に分断して支配した。南部はケニア・タンガニーカ・ウガンダなどの他の東アフリカの植民地と同様に支配され、北部はエジプトとの共同統治でアラビア語を共通語とした。北部の者が南部での地位を得ることも、南北の通商も妨げられた。 北部の圧力を受け、1946年にイギリスは南北の統合を決め、南部でもアラビア語が公用語とされ、北部の者が権限を得るようになった。英語の学業を修めた南部のエリートは政権に入れず、変化に憤慨した〔What's happening in Sudan? , Sudanese Australian Integrated Learning (SAIL) Program. Archived 27 December 2005 on the Internet Archive. Accessed 10 April 2007.〕。脱植民地化でハルツームの北部エリートがほぼ全ての権力を握り、南部では不満が高まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次スーダン内戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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