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第二次マチャイアスの海戦()は、アメリカ独立戦争の1777年8月13日から14日に起こったイギリス軍の水陸共同作戦による襲撃である。当時はマサチューセッツ湾植民地、現在はメイン州となっているマチャイアスの港付近で戦いが起こり、地元民兵と同盟インディアンがイギリス軍の上陸を阻止した。イギリス海軍ジョージ・コリアー海軍代将が率いたこの襲撃は、1776年11月に包囲されたノバスコシアのカンバーランド砦に対して2回目の攻撃を阻止するために実行された。イギリス軍はマチャイアスの下流で上陸し、船舶1隻を捕獲し、倉庫を襲撃した。 この襲撃の成果については論議が定まっていない。コリアーはカンバーランド砦に対する攻撃のための軍需物資を破壊したことで成功だと主張し(そのような物資はマチャイアスに届けられていなかった)、守備側はマチャイアス占領を阻止し、イギリス軍を撃退したと主張した。 == 背景 == マサチューセッツ湾植民地の東部地区(メイン地区)にある小さな町マチャイアスは、現在メイン州に属している。ここはアメリカ独立戦争の開戦以来、イギリス海軍当局にとって常にトゲであり続けていた。1775年6月、マチャイアスの市民が立ち上がって、イギリス軍の小艦艇を捕獲しており(マチャイアスの海戦)、その後は私掠船の基地になっていた〔Duncan, pp. 211–217〕。 1777年、ノバスコシアを脱出してきたジョン・アレンが、第二次大陸会議から、ノバスコシア西部(現在はニューブランズウィック州)に愛国者の拠点を築くための遠征隊を編成することを承認された。大陸会議はアランに3,000名の兵士を徴募することを認めていたが、マサチューセッツ湾植民地政府は、アランを大佐に任官し、セントジョン川流域で拠点を築くために東部で1個連隊を立ち上げる権限を与えただけだった。アランはその拠点をマチャイアスに置き、6月までに40名ほどの兵士をセントジョン川流域に上陸させた〔Leamon, pp. 90–91〕。しかしハリファックスのイギリス軍当局はアランの任務について情報を入手し〔、6月23日には大部隊をセントジョン川に届けさせた。セントジョン川河口近くの開拓地にアランが配置した兵士はイギリス軍と小競り合いを行い、その後上流に撤退した。アランはその小部隊が撤退を強いられた後で、マチャイアスまで困難な陸路を辿って戻ることになった。この行程でアランは同調的なマリシート族インディアンをアメリカ側に就くよう説得し多くの加勢を得ることに成功した〔Leamon, p. 92〕。8月初旬、マサチューセッツ暫定議会は、アップステート・ニューヨークでイギリス軍ジョン・バーゴイン将軍の軍隊によって差し迫った脅威が生じたために(サラトガ方面作戦)、アランの遠征隊に徴募した部隊を解隊することを決めた〔''Acts and Resolves'', pp. 87–90〕。 カンバーランド砦に対する攻撃作戦を含むアランの念入りな作戦を記した文書が、セントジョン川の戦闘中に奪われ、ハリファックス海軍基地にいるマリオット・アーバスノット提督の副指令、ジョージ・コリアー代将の手に渡った〔Gwyn, p. 64〕。前年にカンバーランド砦に対する攻撃があったので、コリアーは直ぐに動き出した〔。コリアーはアランの作戦基地であり、その兵士の多くの募集源でもあるマチャイアスへの襲撃を計画した。ハリファックス駐屯の陸上部隊指揮官エア・マッシー将軍とコリアーは不仲だったので、陸軍部隊を加えずに遠征を始めることにした〔。7月下旬に、フリゲート艦HMS''レインボー''とブリッグ艦''ブロンド''でハリファックスを出港し、乗艦している海兵を上陸作戦に使うことにしていた。マチャイアスへ向かう途中で、フリゲート艦HMS''マーメイド''とスループ艦''ホープ''が合流した〔Gwyn, p. 65〕。 マチャイアスの防衛部隊はジョナサン・エディ大佐が指揮する地元民兵隊で構成されていた。エディは1776年にカンバーランド砦を攻撃した時の指揮官だった。エディはイギリス軍が攻撃を仕掛けてくると警告を受けていた。民兵はマチャイアス川を渡す網場を設け、上流には幾つかの土盛り堡塁を建設し、地元私掠船から取り上げた大砲を据えた〔。この守備にはマリシート族、パサマクォディ族、ペノブスコット族インディアンから40ないし50名の戦士が折良く加わった。これはアラン大佐がその遠征に障害が起きていることを説明するために、マチャイアスに呼び寄せていたものだった〔Leamon, p. 93〕〔Mancke, p. 103〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次マチャイアスの海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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