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第二次ブルランの戦い(だいにじブルランのたたかい、英:Second Battle of Bull Run、南部での呼称は第二次マナサスの戦い英:Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日〔に戦われた。南軍の将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものであり、1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。 南軍のストーンウォール・ジャクソン少将は広範囲に及ぶ敵の側面に回り込む行軍に続いて、バージニア州マナサスの鉄道結節点にあった北軍の補給庫を占領し、北軍ポープ将軍のワシントンD.C.との通信線を脅かした。ジャクソンは北西へ数マイル後退し、ストーニー・リッジで防御的布陣を行った。1862年8月28日、ジャクソンはグラブトン近くのブローナー農園で北軍の1隊を攻撃したが、引き分けに終わった。同じ日、ジェイムズ・ロングストリート少将が指揮するリー軍の1翼がサラフェアギャップの戦いで北軍の軽い抵抗を突破し、戦場に近付いた。 ポープはジャクソンが罠に嵌ったと確信するようになり、その軍の主力をジャクソンに集中させた。8月29日、ポープは工事中の鉄道路盤に沿って陣取ったジャクソン軍に繰り返し攻撃を掛けさせた。この攻撃は両軍に大きな損失を与えたが北軍が撃退された。正午、ロングストリート軍がサラフェアギャップから戦場に到着し、ジャクソン軍の右翼に陣取った。8月30日、ポープは改めて攻撃を掛けさせたが、ロングストリートが戦場に到着したことを知らないようであった。北軍フィッツ・ジョン・ポーターの第5軍団による攻撃に対して南軍が集中砲火を浴びせて打撃を与え、ロングストリートの5師団25,000名からなる右翼が反撃を行ったが、これは南北戦争の中でも最大の同時集中攻撃になった〔National Park Service . ゲインズミルの戦いでは57,000名による南軍の攻撃があったが、これは長時間にわたる多数回でバラバラの攻撃であった。〕。北軍の左翼が崩壊し、ブルラン川の後方に撤退した。北軍後詰め部隊の効果的な行動により、第一次マナサスの戦いのような惨事の再現だけは免れた。それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は慌ただしいものだった〔National Park Service 〕。 == 背景および対戦した勢力 == 画像:John Pope (06341v).jpg| ジョン・ポープ、北軍 画像:Irv mcdowell.jpg| アービン・マクドウェル、北軍 画像:Franz Sigel.jpg| フランツ・シーゲル、北軍 1862年6月の七日間の戦いでジョージ・マクレラン少将の半島方面作戦が瓦解した後で、エイブラハム・リンカーン大統領は新しく結成したバージニア軍指揮官にジョン・ポープを指名した。ポープは西部戦線で幾らかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりもより攻撃姿勢のある将軍を求めた〔Eicher, p. 318; Martin, pp. 24, 32-33; Hennessy, p. 12.〕。 北軍のバージニア軍は総勢51,000名で3軍団に分かれた。フランツ・シーゲル少将の第1軍団(後のポトマック軍第11軍団)、ナサニエル・バンクス少将の第2軍団(後のポトマック軍第12軍団)、および第一次ブルランの戦いで敗北したときの指揮官、アービン・マクドウェル少将の第3軍団(元ポトマック軍第1軍団、後にポトマック軍に復帰)だった。マクレランのポトマック軍から3個軍団(第3軍団、第5軍団および第6軍団)の一部と、アンブローズ・バーンサイド少将の第9軍団(ジェシー・リー・リノ少将が指揮)がこの戦闘に参戦し、結果的に総勢は77,000名となった〔Martin, p. 280; Eicher, p. 318; Hennessy, p. 6.〕。 画像:Robert Edward Lee.jpg| ロバート・E・リー、南軍 画像:James Longstreet.jpg| ジェイムズ・ロングストリート、南軍 画像:Jackson-Stonewall-LOC.jpg| ストーンウォール・ジャクソン、南軍 南軍の方では、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍が総勢55,000名を2つの「翼」あるいは「指揮」に分けられた。「右翼」はジェイムズ・ロングストリート少将が、「左翼」はストーンウォール・ジャクソン少将が指揮した。J・E・B・スチュアート少将指揮下の騎兵師団がジャクソンの翼に付けられた〔Hennessy, pp. 561-67; Langellier, pp. 90-93.〕。 ポープの任務は幾つかの目的を果たすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守り、ゴードンスビルの方向に動いてマクレラン軍から南軍を引き離す事だった〔Esposito, Map 54.〕。七日間の戦いでマクレラン軍と対戦したリーの経験に基づけば、マクレランはもはやバージニア半島にあっても脅威ではないと認識し、自軍全軍をリッチモンドの守りに就けておく理由は無いと感じていた。このことで、ジャクソン軍をゴードンスビルに配置してポープ軍を堰き止め、バージニア中央鉄道を守らせることができた〔Whitehorne, Overview, np.〕。 リーは胸の内に大きな作戦を描いていた。北軍はマクレラン軍とポープ軍とに分かれており、その位置が大きく隔たっているので、マクレラン軍に注意を戻す前にポープ軍を叩き潰す機会だと捉えた。A・P・ヒル少将に12,000名の部隊をつけて、ジャクソン軍に合流させた。8月3日、北軍の総司令官ヘンリー・ハレックはマクレランに半島からの撤退を完了させ、ポープ軍を支援するために北バージニアに戻るよう指示した。マクレランは抗議し、8月14日まで部隊の移動を始めなかった〔Hennessy, p. 10; Esposito, Map 56.〕。 8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃し、初めは調子が良かったが、A・P・ヒルに率いられた南軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークの背後まで後退させた。しかし、ジャクソン軍の前進は北軍のジェイムズ・B・リケッツ准将の師団によって遮られた。この時までにジャクソンはポークの各軍団が集結しており、個別撃破しようという作戦を難しくしたことを知った。ジャクソンは8月12日までその陣地に留まり、その後ゴードンスビルまで後退した〔NPS Cedar Mountain summary .〕。8月13日、リーはロングストリート軍をジャクソンの補強に派遣した。 8月22日から25日まで、両軍はラッパハノック川沿いで小さな戦闘を繰り返した。激しい雨で川水は脹れ上がり、リーは自軍に川を越させることができなかった。この時までに半島からポトマック軍からの増援が到着しつつあった。リーは北軍がこれらの追加軍を得て南軍を勢力的に上回った事態に直面し、その新しい作戦はジャクソンとスチュアートに全軍の半分の兵力を付けて、ポープの通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を切断するために回り込みを行わせることだった。ポープ軍は撤退を強いられ、動いて脆弱になった時に打ち破られるはずだった。ジャクソンは8月25日に出発し、その夜にセイラム(現在ではマーシャル)に到着した〔Salmon, pp. 127-28; Eicher, pp. 322-23; Esposito, Map 58.〕。 8月26日の夕刻、ジャクソンの翼はサラフェアギャップを経由してポープ軍の右翼に回り込んだ後で、ブリストーでオレンジ・アレクサンドリア鉄道を攻撃し、8月27日の夜明け前にマナサス鉄道結節点にあった北軍の大規模補給庫を占領し破壊した。この急襲で、ポープはラッパハノック川沿いの防御的戦列から急速な後退を強いられた。8月27日から28日に掛けての夜の間、ジャクソンはその各師団を北にある第一次ブルランの戦場まで行軍させ、ストーニー・リッジ下にある未完成の鉄道路盤の背後に陣を構えた〔NPS Manassas Station Operations summary .〕。この防御陣は良いものであった。深い森が南軍の部隊を隠し、南に数百ヤードに過ぎない北軍の行軍路と想定されるウォーレントン・ターンパイクは良く見通すことができた。ロングストリート軍がジャクソン軍に加わるとしても良い進入路があり、このことはもし時間通りに援軍が得られない場合でも、ブルラン山に向かってジャクソン軍が後退することも可能にしていた。また未完成の鉄道路盤は凸凹があって、誂えの塹壕の役目を果たせた〔Hennessy, pp. 145, 200-01; Greene, p. 17.〕。 8月28日のサラフェアギャップの戦いでは、ロングストリートの翼が北軍のわずかな抵抗を突破し、渓谷を通ってジャクソン軍に合流した。この一見些細に見える行動で、リー軍の2つの翼がマナサスの戦場で合流できたので、来るべき戦いでポープ軍が敗れることを事実上確実にした〔NPS Thoroughfare Gap summary .〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次ブルランの戦い」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Second Battle of Bull Run 」があります。 スポンサード リンク
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