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第二次リーム駅の戦い(だいにじリームえきのたたかい、)は、南北戦争中の1864年8月25日、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で、北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する軍隊が、ピーターズバーグにいるロバート・E・リー将軍の南軍にとって重要な供給線であるウェルドン鉄道の部分の破壊を始めた。リーはハンコック軍の動きを妨害するために、A・P・ヒル中将指揮下の軍隊を送り、リーム駅付近で防御を固めていた北軍を潰走させることができた。しかし、鉄道の重要な部分が失われ、この方面作戦の残り期間は兵站の難しさが酷くなった。 == 背景 == ピーターズバーグ包囲が行き詰まりになり始めると、北軍ユリシーズ・グラント中将は、ピーターズバーグ市、南軍のロバート・E・リー将軍の軍隊、アメリカ連合国の首都リッチモンドに物資を供給する鉄道を分断する方法を探し続けた。その重要な供給線の中でもウェルドン鉄道、別名ピーターズバーグ・アンド・ウェルドン鉄道は、南のノースカロライナ州ウェルドンに繋がり、さらに南軍では唯一残っている港、ウィルミントンに通じていた。6月21日から23日にあったジェルサレム・プランク道路の戦いで、北軍第2軍団がウェルドン鉄道の短区間のみ破壊することができたが、その後にリーの北バージニア軍第3軍団に追い出されていた〔Trudeau, pp. 160-64; Salmon, p. 424.〕。 8月18日から21日に起きたグローブタバンの戦いでは、ガバヌーア・ウォーレン少将指揮下第5軍団が第9軍団の支援も得て、線路を数マイルにわたって破壊し、南軍P・G・T・ボーリガード将軍やA・P・ヒル中将の指揮する軍隊からの強力な攻撃にも耐えていた。この北軍の勝利で北軍の前線はさらに南と西に伸び、これを迂回するために南軍は荷車で30マイル(48km) も物資を運ぶことを強いられるようになった。しかし、これは南軍にとってまだそれほど決定的な問題ではなかった。リーの参謀の1人は、「我々は不便になったが、実際的な被害を受けたわけではなかった」と記していた〔Davis, p. 104.〕。 グラント将軍はウェルドン鉄道を恒久的に閉鎖することを望み、グローブタバンに近いウォーレンの陣地からはるか南のロワンティ・クリーク(ストーニー・クリークの町の北約3マイル、5km)まで総延長14マイル(23km) の線路を破壊させることにした。グラントはこの作業を、ジェームズ川の北で第二次ディープボトムの戦いを戦い、そこから南に移動してくる過程にあったハンコックの第2軍団に割り当てた。ウォーレンはグローブタバンでの防御工作物を拡大することに忙しかったので、グラントはハンコック軍団を選んだが、その第2軍団はジェームズ川の北から休息無しに南に行軍することを強いられたために疲弊していた。ハンコック自身も1863年のゲティスバーグの戦いで受けた傷の長引く後遺症に苦しみ続けていた。グラントはハンコックの軍団に、デイビッド・グレッグ准将の騎兵師団をつけて補強した〔Trudeau, pp. 176-77; Horn, p. 141; Salmon, p. 426; Davis, p. 104.〕。 グレッグの師団は8月22日に出発し、南軍の哨兵を蹴散らした後で、ネルソン・マイルズ准将(休暇を取ったフランシス・C・バーロー准将と交代していた)の指揮する第2軍団の歩兵師団と共に、リーム駅から2マイル(3km) の範囲内にある線路を破壊した〔Located at the currently unincorporated community of Reams, Virginia, south of Petersburg, this railroad station is referred to variously as Reams, Ream's, and Reams's Station.〕。8月23日早朝、リーム駅を占領していたハンコック配下のジョン・ギボン准将指揮下の他の師団が、6月のウィルソンとカウツの襲撃時に北軍騎兵隊が建設していた土盛り工作物に陣地を占めた。この工作物は部分的に楕円形をして、東面が開いていた。一部が壊されて、水が満たされていたが、ハンコックの部隊はそれを改良するための動きはほとんどしなかった〔Horn, p. 141; Trudeau, pp. 178-79, 182; Kennedy, p. 360; Salmon, p. 427; Davis, pp. 105-07, describes the earthworks as three sides of a square, each side roughly long.〕。 ロバート・E・リーは、リーム駅の北軍部隊がその供給線に脅威を与えているだけでなく、ディンウィディ郡の郡庁所在地にも脅威だと考えていた。ディンウィディの郡庁舎を落とされると、そこが南軍の退却ルートにとって重要な地点にあるので、ピーターズバーグもリッチモンドも明け渡すことになる可能性があった。また11月にある大統領選挙の直前に、北軍が立ちすくむような敗北を与える機会を狙ってもいた。A・P・ヒル中将に、ウェイド・ハンプトン少将の騎兵2個師団、カドマス・M・ウィルコックス少将の師団、ヘンリー・ヒース少将師団の一部、およびウィリアム・マホーン少将師団の一部からなる遠征隊の総指揮を任せた。総勢は約1万名になった。ヒルは持病の定期的な発作に苦しんでおり、ヒースに戦術指揮を任せて、その任務を「遂行」することと命令していた〔Trudeau, pp. 179, 181-86; Salmon, p. 428; Davis, p. x; Horn, p. 141.〕。 ハンコック自身は8月24日にリーム駅に到着し、その夜までに北軍は駅から南3マイル (5 km) の線路を破壊した。8月25日朝、その土盛り工作物を離れて残る線路5マイル(8km) を破壊する作業を開始したが、ハンコックは南軍騎兵隊が接近している音を耳にして、その部隊を呼び戻した〔Salmon, p. 428; Trudeau, pp. 181-82.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次リーム駅の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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