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笹川 堯(ささがわ たかし、1935年10月5日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、国務大臣、科学技術政策担当大臣、自由民主党総務会長(第47代)、衆議院議院運営委員長(第68代)などを歴任した。 父は元衆議院議員で日本船舶振興会創設者の笹川良一。弟は日本財団会長の笹川陽平。三男に衆議院議員の笹川博義。 == 来歴・人物 == 東京都文京区生まれ。明治大学付属中野高等学校卒業。明治大学法学部に進学するも中退。1954年より全国モーターボート競走会に勤務。1956年、桐生競艇施設(現関東開発)の役員に就任した。 1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧群馬2区(定数3)から無所属で出馬するも落選。1982年5月、桐生競艇施設の全役職を辞任し、顧問相談役に就任する。1983年の第37回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧群馬2区から出馬するが、次点で落選。 1986年の第38回衆議院議員総選挙で、3度目の挑戦にして初当選し、旧群馬2区の3議席は全て自民党が独占した(得票数は中島源太郎、笹川、谷津義男の順。当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・武村正義・園田博之・中山成彬・新井将敬・石破茂・武部勤・井出正一・村上誠一郎など)。1991年11月、宮澤内閣で郵政政務次官に任命される。1993年、選挙制度改革を事実上棚上げした自由民主党執行部に反発し、自民党を離党。同年の第40回衆議院議員総選挙では無所属で3選。 1994年、院内会派「改革の会」の結成に参加。その後、同じく院内会派で、日本社会党を除く当時の連立与党全党が参加した改新及び自由改革連合を経て、新進党結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い新設された群馬2区から新進党公認で出馬し、4選。1996年11月に新進党を離党し、翌1997年4月に自民党に復党する。 自民党復党後、当時の内閣総理大臣橋本龍太郎の出身派閥である平成研究会に入会(小渕→橋本→津島派)。2000年、第42回衆議院議員総選挙で5選。同年に発足した第2次森改造内閣で無任所の国務大臣に任命され、中央省庁再編に伴い科学技術政策担当大臣に任命された。 2003年、自由民主党総裁選挙への立候補に熊代昭彦とともに意欲を示したが、最終的には同じ平成研究会に所属する元運輸大臣藤井孝男を支持し、自身の出馬は見送った(藤井は現職の小泉純一郎に大敗)。同年11月、衆議院予算委員長に就任。 2005年の郵政国会では、小泉首相が成立に執念を燃やす郵政民営化法案に賛成票を投じる(小泉は笹川が郵政政務次官を務めていた当時の郵政大臣であり、郵政族であった笹川は郵便貯金制度をめぐって対立した)。同年の第44回衆議院議員総選挙では群馬2区で7選したが、民主党公認の石関貴史に1,422票の僅差まで詰め寄られ、石関に比例復活を許した。2007年9月、衆議院議院運営委員長に就任。同年10月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、副委員長に就任した。 2008年、麻生太郎自由民主党総裁の下で自由民主党総務会長に起用され、政界入り22年目にして初めて党三役に入った。翌2009年の第45回衆議院議員総選挙では、民主党の石関に敗れ、落選。その後、フジテレビの『新報道2001』に出演した際、政界を引退する意向を表明した。 2012年11月、東京都知事石原慎太郎の辞職に伴い実施される2012年東京都知事選挙に無所属で出馬する意向を表明。13年に及ぶ石原都政を肯定的に評価した上で、石原が推進してきた五輪招致を継承する考えを示したが、大差で落選、供託金も没収された。なお、都知事選と同日に行われた第46回衆議院議員総選挙では三男・博義が群馬3区から自民党公認で出馬し、当選している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笹川堯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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