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米布併合 : ミニ英和和英辞書
米布併合[こめ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こめ]
 【名詞】 1. uncooked rice 
: [ぬの]
 【名詞】 1. cloth 
: [へい]
  1. (n,pref) (1) get together 2. (2) (pref) joint
併合 : [へいごう]
  1. (n,vs) merge 2. join into one 3. annexation 4. absorption 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 

米布併合 ( リダイレクト:ハワイ併合 ) : ウィキペディア日本語版
ハワイ併合[はわいへいごう]

ハワイ併合(ハワイへいごう)または米布併合(べいふへいごう、)とは、1898年になされたハワイ共和国(布哇共和国、現在のアメリカ合衆国ハワイ州)のアメリカ合衆国への併合の事実を指す。本項では、ハワイを併合するまでの経過とその影響について説明する。
== 前史 ==

=== ハワイ王国の親英政策 ===

カウイケアオウリ(カメハメハ3世)によって西欧の文物や諸制度の導入が進められたハワイ王国は、1839年イギリスマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法公布して立憲君主政を成立させた。1845年には基本法により行政府として国王摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。
1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認し、 1843年にはヴィクトリア女王イギリスルイ・フィリップフランス王国が承認した。しかし、欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた〔それにより、宣教師リチャード・アームストロングen)が教育指導大臣(1844年)に、ニューヨークの弁護士ジョン・リコードが法務大臣(1844年)に、スコットランド出身の医師ロバート・ワイリーが外務大臣(1854年)に、アメリカ派遣宣教師団付の医師ジェリット・ジュットen)が内務大臣に、弁護士ウィリアム・リトル・リーが最高裁判所判事にそれぞれ就任した。中嶋(1993)p.37-38。〕。1852年の新しいハワイ王国憲法では、アメリカでリンカーン奴隷解放宣言を発する以前の段階で奴隷禁止条項を盛りこむなど、進歩的な内容をふくんでいた〔中嶋(1993)p.38〕。
こうした欧米化は、従来のアフプアアを軸とした土地概念にもおよび、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された〔中嶋(1993)p.39〕が、1850年クレアナ法が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。
いっぽうアメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された〔スミス(1973)p.166〕。なお、この間カリフォルニアが1850年にへの昇格を果たしている。
カウイケアオウリの甥のアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制するとともに〔、1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリーをはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた〔中嶋(1993)p.58〕。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている〔中嶋(1993)p.59〕。しかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハワイ併合」の詳細全文を読む




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