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糅飯 ( リダイレクト:かて飯 ) : ウィキペディア日本語版 | かて飯[かてめし] かて飯(かてめし)は、米に穀類や野菜・海藻などを混ぜて炊いた飯である。糅飯とも書く〔。 == 概要 == かて飯は、米の消費を抑える目的で、雑穀や野菜など他の廉価な食品を炊きこんで増量した飯である。米に加える食品を「かて」と呼び、その種類によって大根飯、蕪飯、芋飯、南瓜飯、小豆飯、山菜飯、海藻飯と呼び分ける。農業技術や輸送、貨幣経済が未発達時代だった近世以前は、全国的に広く食されていた。米が貴重な離島や寒冷地の山村では、粟や稗など雑穀の飯に野菜類を混ぜ炊きする例も見られた。今日では米の不足を補うためというより、季節の料理として、あるいは食卓に変化を持たせるため、えんどう飯、栗飯、松茸飯などの炊き込みご飯や混ぜご飯として食べられることが多い〔。 日本人の主食は米とされているが、階級や貧富、地域などによって大きな違いがあり、少なくとも昭和30年代(1955年-1964年)までは大半の日本人が米を常食とすることはできず、雑穀や芋など米以外のものを常食としていた人たちも多かった。昭和も後半に至って高度成長期までには米飯が普及したとされるが、通常は麦飯で、米だけを炊く白米の飯は正月と盆、祭に食べるものであり、凶作や飢饉に備えて米を節約するため、かて飯が食されていた。都市部〔『聞き書 東京の食事』には、どのような時に白米飯を食べたかの記載があるが、白米飯を常食にしていたのは東京都区部のうち下町と山の手に限られ、葛飾や大森海岸では常食は2-3割程度の麦を混ぜた麦飯とあり、ここでいう都市部には含まれない。〕や漁村〔『聞き書 千葉の食事』には、九十九里浜の漁村の例があるが、稲作地帯であり漁師でも水田を所有し米は自前であるにも拘らず、日常的には購入した麦を混ぜるとある。しかし忙しい時や漁に出た際の船上での炊飯は手間を省くため米だけの飯を炊き、ハレの日でなくとも白米飯を食べる例である。また、『聞き書 富山の食事』にある氷見灘浦の漁村の例は、冬場は脚気防止のため1割り程度麦を混ぜるが、ふだん食べるのは白米飯とある。〕の人々は購入した米でふだんでも白米飯を食べたが、農村では水田地帯でさえも麦や粟などの雑穀、芋類や大根、菜などを大量に入れて混炊した飯を食べ、畑作地帯では粟、稗、麦にわずかな米を混ぜた三穀米が常食であり、関東地方の畑作地帯などでは麦が7割から8割の飯〔『聞き書 埼玉の食事』には、北足立台地の上尾の兼業として豆腐屋を営む農家の例があり、米と麦半々の飯を食べているとあるが、『聞き書 東京の食事』の武蔵野台地・久留米の農家の例は、麦を7割あるいはさらに稗を1割入れた米3割か2割の飯となっており『民俗小事典 食』の記述と整合する。これは南側の世田谷の喜多見なども同様であった。〕を常食としていた〔。滋賀県蒲生郡日野町では、日常食は麦飯や芋飯、南瓜飯などかて飯で、子供たちは白米飯を食べられる正月を待ち望んだ。この地のわらべ歌に「正月サンおいでたか、雪ほど白いママ食べて……」と、正月と白米飯を待ち望む心情が唄われている〔『食の民俗事典』254頁は、1933年(昭和8年)生まれの女性の幼少時の体験を一例としてあげている。なお、これが不幸な例というわけではなく、ひもじさをこらえていた都市部の子供よりむしろ恵まれていたということもできる。〕。 かて飯は白米飯よりも食味が劣り、腹持ちが悪い。そのため各家庭の主婦は、仕事に出る男性や学校に通う子供の弁当として、釜の底の白米の多い部分の飯を詰めて持たせた。残りのかての多い飯は、家に残る女衆で消費した〔。また、かて飯は腐りやすいため、農村でも盛夏に限っては白米飯を食べる地域もあった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「かて飯」の詳細全文を読む
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