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羽地朝秀の墓(はねじちょうしゅうのはか)は、沖縄県那覇市首里平良町の通称チャーギ山にある琉球王国の摂政・羽地王子朝秀の墓である。墓様式は亀甲墓の祖型をなす独特の形をしている。 ==概要== 羽地朝秀の墓は、正確には朝秀個人の墓ではなく、琉球王族・羽地御殿の歴代墓(家族墓)である。羽地御殿は、小禄御殿二世・尚弘業・浦添王子朝喬の三男・羽地王子朝元を系祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。 羽地朝秀の墓は、朝秀の父・朝泰の代に国王から拝領したもので、当初は堀込墓であったが、後年現在の亀甲墓の形に似た姿に改修されたといわれる。形は亀甲墓に似ているが、屋根は亀甲形ではなく、かまぼこ形をしており、亀甲墓に特有の臼(ウーシ)や袖石(スディイシ)といった諸要素も欠いている。 また、亀甲墓に比べて、地面からマユ(眉)と呼ばれる墓室正面の屋根までの高さも高く、墓口も大きい。墓室前には庭を囲む袖垣があるが、戦前の写真と比べると、上部が崩壊したのか高さが低くなっている。墓口近くの墓庭には「贈 正五位 羽地朝秀之墓」の文字を刻んだ石碑が1922(大正11)年に建立されている。 羽地朝秀の墓は、玉城朝薫の墓同様、亀甲墓の祖型をなす墓様式と位置づけられているが、改修年は護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)より以前であったのか、正確には分かっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羽地朝秀の墓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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