|
胡 毓坤(こ いくこん)は中華民国の軍人。北京政府、奉天派の軍人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は凌塵。 == 事跡 == 奉天派の軍人として経歴を重ねる。1925年(民国14年)、李景林率いる第1師で第4混成旅旅長となった。翌年、李が反張作霖の動きを見せたために武装解除され、失脚する。李の部隊は安国軍第16軍・第17軍に再編され、胡毓坤が第17軍軍長に任命された。 1928年(民国17年)、張学良が父を後継すると、胡毓坤は東北辺防司令長官公署参議官に転じる。翌年、張学良による中東鉄路の接収強行に端を発して、奉天派とソ連との紛争が発生した。このとき、胡は防俄軍第2軍軍長としてソ連軍に応戦している。1930年(民国19年)、中原大戦が勃発すると、胡は討逆軍第3軍軍長に任命され、張学良に従って関内に入り反蒋介石軍と交戦している。 1933年(民国22年)5月、国民政府軍事委員会北平分会委員に任ぜられる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、冀察政務委員会委員に任ぜられている。1936年(民国25年)12月、西安事変が勃発した際には、胡毓坤は張学良による蒋介石の捕縛を支持した。そのため、事変解決後に張が逮捕されると、胡はこれに不満を抱くようになる。 そして1938年(民国27年)、鮑文樾の誘いを受けた胡毓坤は、以後、汪兆銘の反蒋介石活動に与するようになる。1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権が樹立されると、胡は軍事委員会委員に任命される。翌月、蘇豫辺区綏靖司令となった。1943年(民国32年)10月、軍事委員会駐華北委員となり、さらに陸軍上将を授与されている。翌年3月、駐華北軍務長官に任ぜられた。1945年(民国34年)4月、軍事委員会参謀総長に任ぜられた。翌月、軍令部部長にもなっている。 日本敗北後に、胡毓坤は蒋介石の国民政府に逮捕され、1946年(民国35年)5月24日、漢奸の罪により南京で銃殺刑に処された。享年62。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡毓坤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|