|
胡 烈(こ れつ、? - 270年)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。魏・西晋に仕えた。字は玄武。雍州安定郡の人。父は胡遵。兄は胡広・胡奮。弟は胡岐。子は胡淵。 == 経歴 == 257年、諸葛誕が反乱を起こす(諸葛誕の乱)と討伐軍に参加、抜け道を通って都陸を襲撃し、呉の朱異軍の兵糧を燃やすという戦功を挙げた(その後、兵糧不足に陥った朱異は撤退している)。 263年、征蜀護軍の地位にあった胡烈は、鍾会軍の先鋒として陽安関を襲撃、傅僉を討ち取って陽安関を占領した。その後、降将の姜維と手を組んで魏から独立しようと考えた鍾会に、幽閉された。この時、丘建の従卒が胡烈に食料を差し入れに訪れた。それを見た胡烈の従卒も胡烈に食料を差し入れに来たが、胡烈はその従卒に「丘建が極秘に情報をくれた。鍾会は大穴を掘り、棒を数千本用意し、よその兵を順番に棒で殴り殺して、穴に投げ込むつもりらしい」という嘘の情報を流した。これを聞いた彼の子をはじめとした諸軍が、鍾会・姜維を襲って殺したため、胡烈は命を救われることになった。 264年、荊州刺史の地位にあった胡烈は、羅憲が守備する永安の救援に向かい、呉軍を撤退させた。 翌265年、司馬炎(武帝)が西晋を興した。 270年、秦州刺史の地位にあった胡烈は、鮮卑の禿髪樹機能の反乱に遭い戦死した。この直前、陳騫が司馬炎に対し「胡烈と牽弘(涼州刺史)は勇敢であるが思慮分別に欠ける人物なので、刺史の任は果たせないだろう」と伝えていたため、訃報に接した司馬炎は陳騫の言葉を用いなかったことを大いに後悔したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡烈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|