|
胡綜(こ そう、185年 - 243年)は、中国三国時代の呉の官人。字は偉則。豫州汝南郡固始県の人。子は胡沖。 == 事跡 == 幼くして父を亡くし、母に従い江東に移った。14歳になると会稽太守であった孫策から門下循行に採り立てられ、孫権とともに学問を学んだ。 孫策死去後、孫権により金曹従事に任ぜられ、黄祖討伐の武功により鄂県長に任じられている。孫権が車騎将軍になると、胡綜が将軍府の書部となり、是儀や徐詳とともに国政の中枢を司った。劉備を攻めるため白帝城を攻撃することになった際、徴兵を行ない、右武督として左部督に任じられた徐詳とともに戦役に参加している。 黄武年間、賀斉とともに魏の晋宗を捕虜にした功績で建武中郎将に就任した。魏が呉を藩国とし、孫権が呉王に任ぜられると、是儀や徐詳らとともに亭侯に封ぜられた。 黄龍元年(229年)、孫権が帝号を称し建業で正式に呉を建国すると、徐詳とともに侍中となり郷侯として左右領軍を兼務した。さらに偏将軍を拝し、左執法を兼務して訴訟行政を担当している。なお、胡綜が偏将軍であった頃、朱桓に命を狙われたというエピソードがある(「朱桓伝」)。 公孫淵に対する使者派遣に関し、孫権と張昭が対立した際には両者の仲介を行なっている。赤烏6年(243年)に死去、爵位は子が継承している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡綜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|