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花 雲(か うん 1321年 - 1360年)は、元末の軍人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。 ==生涯== 1353年に朱元璋の元へ馳せ参じた。同年、定遠攻略に参戦した24将の1人。滁州攻めに向かうときのこと、花雲は先鋒として数騎を率いていた。そのとき、偶然にも数千の敵軍に出くわした。花雲は剣を抜いて、怯むことなく戦った。このとき、敵兵から『黒将軍』と呼ばれ、恐れられたという。その後、滁州攻略時にも功をあげた。 1355年、和州攻略において、敵兵3百を捕虜とした。1356年、太平、集慶攻略に参加し、いずれも功をあげた。特に集慶攻略では、敵兵3千を捕虜とする活躍を見せた。鎮江、丹陽、丹徒、金壇攻略に貢献した。馬太沙の辺りで数百の賊に道を遮られるも、3日間戦い続け、遂に賊を全て捕えた。 1357年、常州を攻略し、牛塘営を守った。朱元璋が太平に枢密院を置くと、枢密院院判に任じられた。常熟の攻略に参加し、万余の兵を捕虜とした。朱元璋の命により、寧国の群盗征伐を行った。自ら矛を振って1千1百の首級をあげる。この間、その身に一本の矢も受けることは無かった。討伐を完了させたのち、太平へ帰還した。 1360年、陳友諒が太平を攻撃した。朱文遜、許瑗、王鼎らと共に防戦に努めた。3日間防戦したが、朱文遜が戦死し、自身も許瑗、王鼎と共に捕われてしまった。縄で縛られたが、身を震わせ、大声で叫んで、縄を裂き、敵兵の剣を奪って5、6人を斬り伏せた。更に陳友諒に対して「貴様などわが君の敵ではない。降伏せよ」と罵った。再び捕えられると、怒った陳友諒は船の帆柱に縛りつけ、兵に無数の矢を花雲に向けて放たせた。花雲は針鼠のように矢を受けても、絶息するまで花雲は陳友諒を罵ることを止めず、39歳で亡くなった。1364年、朱元璋は呉王となった際、花雲を東丘郡公に追封し、忠臣祠を建てた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花雲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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