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芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。 == 人物 == 国文学者・芳賀矢一の子として東京府に生まれる〔『日本の有名一族』、182頁。〕。 1916年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1921年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、美濃部亮吉(元東京都知事)、正田英三郎(日清製粉名誉会長)、岸本英夫(東京大学名誉教授)、諸井三郎(作曲家)などがいた。 その後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学ドイツ文学科卒。ドイツに留学、エルンスト・ベルトラムに師事する。 帰国後、第三高等学校教授となり、保田與重郎、亀井勝一郎らの雑誌『日本浪曼派』、『四季』の同人として活躍し、1937年に『古典の親衛隊』を刊行。独特の文体で、ドイツの唯美主義的感性を導入して、戦時下、ロマン主義的・民族主義的な文学理論を展開した。リルケの翻訳でも知られ、著書に『リルケ』『ニーチェ』『死の超克』などがある。 戦後は関西学院大学教授を務め〔、父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、日本ペンクラブの仕事に精を出していたが、1957年、国際ペンクラブ大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけた〔。その道化じみた様子は、高田里惠子の『文学部をめぐる病い』で揶揄されている。その後東洋大学、創価大学教授。 芳賀徹の父親と間違われることが多いが、関係ない〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芳賀檀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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