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菊池 武光(きくち たけみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主菊池武時の子で9男とも。 == 生涯 == === 菊池氏惣領の継承 === 肥後益城郡豊田庄(現熊本県熊本市城南町)出身。柔弱な弟の武士の代理として、興国6年/貞和元年(1345年)に阿蘇惟澄と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主となった。 その後南朝後醍醐天皇の皇子で、征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。正平6年/観応2年(1351年)には筑後に進出して勢力を拡大し、正平8年/文和2年(1353年)2月には北朝の九州探題一色範氏と少弐頼尚の争いに介入し、筑前針摺原にて一色探題軍を撃破する(針摺原の戦い)。同年7月には筑前飯盛山にて再び一色軍を破り、続いて正平9年/文和3年(1354年)からは豊後・肥前などに進出して大友氏泰を降伏させ、探題一色範氏を長門に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した。 正平11年/延文元年(1356年)10月に九州へ侵攻するも、豊前にて再度これを撃破。ここに至って一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還する事となった。正平13年/延文3年(1358年)1月には父範氏に代わって探題となった一色直氏がなおも挑んできたものの、武光はこれを撃退し、同年11月、日向の畠山直顕をも破って、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃せしめた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池武光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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