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菊池 総(きくち さとし)は日本の野球選手(投手)。投手としては小柄ながら、キレの良いスライダーとシュートを駆使しソウル五輪代表にも選ばれた〔毎日新聞、1999年7月31日付夕刊、P.2〕。 == 経歴 == 印旛高校では秋の県大会でエースとしてチームを支え、同校に初優勝をもたらした〔朝日新聞、1998年12月13日付朝刊、千葉地方面〕。続く関東大会でも防御率0.38の成績で優勝の原動力となり、江川卓にも匹敵するとの高評価を得ている〔読売新聞、1978年3月30日付朝刊、P.17〕。翌の第50回選抜高等学校野球大会に出場。1回戦で西田真次、木戸克彦のバッテリーを擁するPL学園と対戦し、緊張もあって4点を奪われ完封負けに終わった〔。同年夏の甲子園県予選では準々決勝で浦安高に延長10回サヨナラ負け、甲子園には出場できなかった。 明治大学に進学。東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験するが、1年上に森岡真一(日産自動車)、同期に小島義則(東京ガス)、武藤哲裕(日本鋼管)と好投手がおり、あまり活躍の場はなかった。 卒業後は東芝に進み、三原昇らとともに投手陣の中心となる。の都市対抗では3勝を挙げ決勝に進出。先発に起用されるが日本生命に逆転負け、この大会で久慈賞を獲得。の都市対抗でも決勝に進出、ヤマハのエース劉秋農と投げ合うが敗退、またも準優勝にとどまる。この大会では2度目の久慈賞を獲得した。同年は第8回インターコンチネンタルカップ日本代表となり、社会人ベストナインにも選ばれた。 翌はソウル五輪代表に選出され、若い選手の多い投手陣のまとめ役となった〔別冊宝島、1545号、P.75〕。第30回ワールドカップ(旧アマチュア野球世界選手権)日本代表にも選出されている。また同年はチームが都市対抗と日本選手権の両大会を制覇、これは史上初の快挙であった。菊池は両大会とも決勝で先発、都市対抗ではNTT東海との接戦の末9回裏サヨナラ勝ち、日本選手権では本田技研熊本を2回以降を無失点に抑え快勝した〔毎日新聞、1988年11月1日付朝刊、P.1〕。日本選手権では優秀選手賞を受賞している。この時のチームメートに三原の他、近藤芳久、丹波健二、南淵時高らがいた。 密かに引退を決意して臨んだの都市対抗では決勝戦で8回途中から登板して胴上げ投手となり、非常に思い出深い試合になったという〔。引退後は社業に専念して官公庁向けの営業などを担当している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池総」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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