翻訳と辞書 |
董巒[とう らん] 董巒(とう らん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の軍人。もとの名は蛮。字は仲舒。本貫は営陽郡。 == 経歴 == 北魏の太平真君末年、父に従って北魏から南朝宋に亡命した。江南で成長したが、言語や風習は華北のものを身につけた。性格は武骨で、文字はあまり覚えなかった。485年(永明3年)、南朝斉の寧州刺史に任じられた。487年(永明5年)、寧州に益寧郡を置き、武陽・綿水の2県をこれに属させた。489年(永明7年)、魚復侯蕭子響の命により蛮の名を仲舒と改めた。永明末年、武興王楊集始が北魏につくと、董巒(仲舒)は斉の明帝の命を受けて、これを攻撃した。495年(南朝斉の建武2年、北魏の太和19年)1月、北魏の平南将軍の王肅頻に敗れて捕らえられた。董巒は北魏の孝文帝に朝廷に引き出され、南朝の事情を問われたが、恐れて答えることができず、何度か子の董景曜のほうを見つめた。董景曜が父に代わって斉の明帝即位の事情を滔々と答えた。董巒は越騎校尉となり、董景曜は員外郎となった。董巒は再び南朝に走ろうとしたため、罪により朔州に流された。497年(太和21年)、孝文帝が漢陽を攻撃すると、董巒は召し出されて従軍した。董景曜は洛陽に入ると、必ず父が裏切るだろうと、孝文帝に密告した。魏軍が魯陽に進駐すると、董巒は単騎で南に逃走し、南陽や新野に入って、魏軍がやってくることを告げ、備えを固めるよう進言した。斉の南陽郡太守の房伯玉や新野郡太守の劉(思)忌はともに心配いらないと述べたが、董巒は魏軍が大軍であることを強調して楽観をいましめた。国境から北に向けて景曜の名を呼び、子を顧みずに南に帰朝したことを嘆いた。董景曜は孝文帝の行在に幽閉された後に、斬られた。以後の董巒の事跡は知られていない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董巒」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|