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蔡儁[さい しゅん] 蔡 儁(さい しゅん、495年 - 536年)は、中国の東魏の軍人。字は景彦。本貫は広寧郡石門県。 ==経歴== 蔡普の子として生まれた。若いころから高歓と親しく交友した。六鎮の乱が起こると、蔡儁は杜洛周に捕らえられた。ときに高歓もまた杜洛周の軍中にあった。高歓が杜洛周を討とうと図ると、蔡儁もその計画に参与した。計画が漏洩すると、葛栄のもとに逃れ、後に葛栄にそむいて爾朱栄に帰順した。528年、爾朱栄が洛陽に入ると、蔡儁は平遠将軍・帳内別将となった。爾朱栄の下で葛栄を撃破し、諫議大夫に任ぜられた。529年、元顥を討ち、烏洛県男に封ぜられた。531年、高歓の起兵に従って、都督となった。高歓が鄴を平定し、韓陵で爾朱氏を破るのに、蔡儁はいずれも戦功を挙げた。孝武帝が即位すると、蔡儁は済州刺史として出向した。胡遷らが兗州で乱を起こすと、蔡儁は斉州刺史の尉景とともにこれを討って平定した。 孝武帝が高歓との間で険悪になると、済州は要地であったので、帝の腹心に守らせたいと考えた。ひそかに御史に詔して蔡儁の罪状をでっちあげさせ、汝陽王元叔昭を蔡儁に代えて済州に置くこととし、蔡儁を行兗州事に転出させようとした。高歓は蔡儁の罪のないことを述べて、復任させるよう上奏した。孝武帝は許さず、賈顕智を済州刺史とし、兵を率いて済州に向かわせた。賈顕智は東郡まで進軍したが、蔡儁が堅く守って備えたので、打撃を受けるのをおそれてそれ以上進もうとしなかった。 東魏の天平年間、蔡儁は都督となり、領軍の婁昭の下で樊子鵠を兗州に攻撃し、また行台の元子思とともに元慶和を討って、これらの乱を平定した。侯淵が乱を起こすと、蔡儁は大都督となり、兵を率いてこれを討ち、侯淵を敗走させた。揚州刺史に転じた。536年秋、揚州で死去した。享年は42。持節・侍中・都督・冀州刺史・尚書令・司空公の位を追贈され、諡を威武といった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡儁」の詳細全文を読む
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