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藤原 伊成(ふじわら の これなり、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、権中納言・藤原義懐の子。官位は従五位上・左近衛少将。 == 経歴 == 『権記』によると、長保2年(1000年)兄・藤原成房の舎弟であった薬壽が加冠し、内蔵頭・藤原陳政が理髪を行ったとの記事があり〔『権記』長保2年12月13日条〕、これが伊成を指す可能性がある。 長保4年(1002年)の成房の出家を経て、長保5年(1003年)までに左兵衛権佐に任ぜられ、同年3月には従兄弟にあたる藤原行成の許を訪れた人物として『権記』に登場する〔『権記』長保5年3月20日条〕。寛弘4年(1007年)右中弁・藤原経通、侍従・藤原能信らとともに昇殿を許される〔『権記』『御堂関白記』寛弘4年2月9日条〕。のち、寛弘5年(1008年)右近衛少将、寛弘6年(1009年)左近衛少将と引き続き武官を歴任する。 同年11月末に中宮(土御門邸)で行われた敦良親王(のち後朱雀天皇)の誕生五夜の産養に際して、伊成は右兵衛佐・藤原能信から罵倒される内にその責めに耐えられず、笏で能信の肩を殴りつけた。これによって蔵人・藤原定輔は伊成を縁側から突き落とし、能信の家人を召し集め、髪を捕らえて俯せに踏みつけ、松明をもって殴り押さえつけたとされる。この凌辱事件が原因で伊成は12月1日に出家した。〔『古事談』第一王道后宮,「伊成出家の事」。『権記』寛弘6年11月29日条,12月1日条〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原伊成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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