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藤原 元輔(ふじわら の もとすけ、 延喜16年(916年)〔『公卿補任』による。『系図纂要』では延喜17年生まれとする。〕 - 天延3年10月17日(975年11月23日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原顕忠の長男。官位は正四位下・参議。 == 経歴 == 左兵衛少尉・右衛門少尉・左近衛将監といった武官や六位蔵人を経て、天慶8年(945年)従五位下・侍従に叙任される。のち、天暦6年(952年)従五位上、天暦10年(956年)正五位下と昇進する傍ら、近衛少将や五位蔵人を務め、天徳2年(958年)には従四位下・右近衛中将に叙任されるなど、村上朝の中期以降は父・藤原顕忠の昇進に伴って、元輔自身も順調に昇進した。 応和3年(963年)従四位上、康保4年(967年)左近衛中将を経て、安和元年(968年)冷泉天皇の蔵人頭に任ぜられる。しかし、安和2年(969年)円融天皇の即位に伴って蔵人頭に任ぜられた源保光・藤原為光が、翌安和3年(970年)に蔵人頭在任1年ほどで参議に任ぜられる一方で、元輔は蔵人頭を5年務めて天禄3年(972年)になってようやく参議に任ぜられ公卿に列している。元輔は時平の男系の孫では唯一公卿に列せられたが、外戚政策に成功した師輔と比べると37年も遅れ、円融天皇の摂政となっていた伊尹(太政大臣)を筆頭に兼家(権大納言)・兼通(権中納言)・為光(参議、元輔より2年早く任官)、他にも実頼の子である頼忠(右大臣)・斉敏(参議)と既に忠平の孫世代では6人も公卿に列せられており、時平の系統はますます振るわなくなっていた。 天延2年(974年)正四位下に叙せられるが、翌天延3年(975年)10月17日卒去。享年60。最終官位は参議治部卿正四位下兼美濃権守。享年59。この後、時平の男系子孫で公卿に昇った者はなく、元輔が時平流で最後の公卿となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原元輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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