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藤原 斉敏(ふじわら の ただとし)は平安時代中期の公卿。摂政・藤原実頼の三男。 == 経歴 == 延長6年(928年)藤原実頼の三男として生まれる。当時祖父・藤原忠平が左大臣として権力を振るい、延長8年(930年)摂政となる。その長男であった父・実頼も蔵人頭になり、延長9年(931年)早くも公卿に列した。三男である斉敏は始め小舎人として出仕。天慶6年(943年)殿上にて元服し、長兄・敦敏や次兄・頼忠に次いで天慶7年(944年)17歳で従五位下に叙爵されている。 天暦元年(947年)に敦敏が早世し、頼忠が嫡男となる。斉敏は天暦4年(950年)左兵衛権佐に任ぜられ、天暦5年(951年)従五位上、天暦7年(953年)正五位下と順調に昇進。天暦8年(954年)美濃権介を兼ね、翌天暦9年(955年)村上天皇の五位蔵人となる。同年従四位下に昇り、右近衛権中将、美濃権守を歴任する。 天暦11年(957年)母の忌日によって春日祭使を辞退。天徳3年(959年)には病により中将を辞任する。その間に頼忠は参議となり公卿に列し斉敏は遅れをとっている。康保3年(966年)春宮権亮に復し、父・実頼が関白となった康保4年(967年)に参議に任ぜられ公卿に列す。守平親王(のちの円融天皇)の春宮亮を兼任し、正四位下に進む。伊予守、治部卿、左兵衛督を歴任するが父・実頼は天皇の外戚にはなれず恣に権力を握れずにいたため、昇進は停滞していた。 天禄4年(973年)従三位・伊予守に叙任されるが、同年2月に頼忠に先立って46歳の若さで薨去してしまったため、最終官位は従三位・参議止まりとなった。男子3人は日記『小右記』を書き記した実資を始め、全員が65歳以上を保ち、それぞれ公卿に列した。また、実資は実頼の養子になり右大臣まで昇り小野宮流を継いでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原斉敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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