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藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿。摂政太政大臣・藤原道長の四男。 == 経歴 == 寛弘3年(1006年)従五位上に直叙され、侍従に任ぜられる。右兵衛佐・五位蔵人を経て、寛弘8年(1011年)従四位下、長和2年(1013年)蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される。 父・道長に似て勝気な性格だったらしく、寛弘6年(1009年)には敦良親王(のちの後朱雀天皇)誕生を祝う儀式中に、同席した左近衛少将・藤原伊成を罵倒した挙句、加勢した能信の従者によって一方的に暴行を受けた伊成が憤慨して出家してしまうとの事件を起こしている〔『古事談』第一王道后宮,「伊成出家の事」。『権記』寛弘6年11月29日条,12月1日条〕。また、長和2年(1013年)の石清水八幡宮臨時祭の際、前大和守・藤原景斉、前加賀守・源兼澄、祭主・大中臣輔親、前加賀守・藤原為盛、高階成順、蔵人所雑色・源懐信らが牛車の中で奉幣の勅使を見物していたところに、能信が後から現れる。そこで、景斉らが能信に対して近くで見物を行うことの許しを請うたところ、まず輔親と懐信を従者の手で牛車から引きずり出すと、次に景斉と兼澄の乗る牛車に対して従者に石を投げつけさせ、遂には景斉も牛車の外へ引きずり出して一方的に暴行させている〔『小右記』長和2年3月30日条〕。 道長には頼通・教通を生んだ源倫子(左大臣・源雅信の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父であった源高明はすでに故人で、しかも安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて目覚ましい昇進を遂げたのに対して、明子所生の子息(頼宗・顕信・能信・長家)は昇進面で差を付けられていた。既に長和2年(1013年)の時点で、明子所生の子息で議政官に達した者はいない中、頼通は内大臣、教通も権中納言の官職にあった。この状況の中で明子所生の兄弟は頼通と協調して自己の昇進を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶。公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。 長和3年(1014年)従三位に叙せられて公卿に列すと、長和4年(1015年)正三位、長和5年(1016年)従二位に叙せられ、寛仁元年(1017年)には参議を経ずに権中納言に任ぜられるなど、執政・藤原道長の子息として、急速に昇進を果たす。寛仁2年(1018年)正二位。 この間の長和3年(1014年)近江国にて強姦を企てた右近衛将監・藤原頼行の要請を受けて、一人の従者を加勢に派遣する。しかし、二人が山科で落ち合うと間もなく口論を始めて遂には「合戦」に及び、頼行により従者は射殺されてしまった。さらに長和5年(1016年)には、故右京進・藤原致行の妻(観峯女)を我が物にしようと女の家に押し入るが逆に身柄を拘束されてしまった大学助・大江至孝からの要請を受けて、従者を加勢に向かわせる。従者たちは至孝を助け出すが、混乱の中で従者の一人が刺殺されてしまう。これを受けて、さらに多くの能信の従者が観峯女の家に殺到、略奪を尽くした上、女を拉致して能信の邸宅に連れ込もうとしたが、結局何らかの理由により解放している〔『小右記』長和5年5月25日条。『左経記』長和5年5月25日条〕。この事件に対する道長の怒りは激しく、事件の翌日に弁解のために訪れた能信を追い払ってしまったという〔『御堂関白記』長和5年5月26日条〕。 治安元年(1021年)異母弟の教通が内大臣に昇進するのと同時に、同母兄・頼宗とともに能信は権大納言に昇進する。翌治安2年(1022年)土地の所有権に関する争いに関連して、能信が教通の従者の厩舎人長を拉致監禁して暴行を加えると、今度は教通から能信の従者の家を破壊されるという報復を受けている〔『小右記』治安2年3月23日条〕。 長元5年(1032年)教通の子の信長の元服に際して加冠役を務める。それまでも妍子、威子と倫子腹の異母姉妹の中宮に中宮権亮・中宮権大夫として仕えていたが、長元10年(1037年)後朱雀天皇の中宮に三条天皇の皇女・禎子内親王(のち陽明門院)が決まると、中宮大夫に任じられてこれに仕える。既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営に立った。加えて禎子内親王所生の尊仁親王(のち後三条天皇)の後見人も引き受けることになった。寛徳2年(1045年)に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするよう遺詔を得たとされる〔『今鏡』〕。 だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろうと噂され、春宮・尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。 以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、康平8年(1065年)2月9日薨去。同母兄の右大臣・藤原頼宗の急死で大臣への道が開かれたそのわずか6日後のことであった。享年71。最終官位は権大納言兼春宮大夫正二位。 その3年後の治暦4年(1068年)後冷泉天皇が男子を遺さずに崩御すると、尊仁親王が即位(後三条天皇)、続いて延久4年12月(1073年1月)に茂子所生の皇子である白河天皇が即位した。白河天皇は能信のことを必ず大夫殿と尊称したとされ、延久5年(1073年)には能信に正一位・太政大臣の官位を贈っている。なお、後三条・白河両天皇による親政とその後の院政の開始は、摂関家による摂関政治を終焉に導く事となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原能信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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