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藤原薬子(ふじわらのくすこ、生年不詳 - 大同5年9月12日(810年10月17日))は平安時代初期の女官。式家の藤原種継の娘。 中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。長女が桓武天皇の皇太子安殿親王の宮女となり、東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになると、こんどは自分が安殿親王と不倫の仲となった。薬子は藤原葛野麻呂とも通じていたとされる。桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。 806年、桓武天皇が崩御して安殿親王が平城天皇として即位すると、薬子は再び召され尚侍となる。夫の縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられる。天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになる。兄の藤原仲成とともに専横を極め、兄妹は人々から深く怨まれた。大同4年(809年)、亡き父の藤原種継に太政大臣を追贈させる。 同年、平城天皇は病気のため同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。退位した平城上皇は平城京へ移る。 このため平安京と平城京に二所の朝廷が並ぶようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。 大同5年(810年)9月10日、嵯峨天皇は平安京にいた仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。平城上皇は薬子とともに挙兵するため東へ向かったが、嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえた。勝機のないことを知った平城上皇は平城京に戻って剃髮し、薬子は毒を仰いで自殺した。仲成も殺された(薬子の変)。 ==参考文献== *海音寺潮五郎『悪人列伝2』(文春文庫) *永井路子 『王朝序曲』上・下巻 (角川文庫) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原薬子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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